ライブラリアンのためのリナックスという夢想

すでに存在するかもしれないのだが。


リナックスをさてどれにするかと、いろいろ調べていたときに、少し考えさせられたことがあった。
いわゆるディストリビューションのなかの、特定ユーザーを想定したものを目にしたときだ。
医師(会計士だったかも)向けや教育関係者向き、クリスチャン向けには「Ubuntu Christian Edition」というようなものがあるらしい。
おおむねクリエイター用にチューンされた「Ubuntu Studio」なんていうものもある(これはおしゃれさんぽくて、心惹かれるものはあったのだが、初心者向きではないかもということで断念した)。


さて、私が思ったのは、このそれぞれの専門家向きのパッケージは門外漢でも、その内容(ソフトの組み合わせといったこと)がなんとなく想像がつくということだった。
そうなると気になりはじめたのが、図書館員のためのディストリビューションというものがあったとして、門外漢にそれは容易に想像がつくかということだった。
これはいわば、その職業の専門性の社会的認知の問題だと思う。
(まあ、当時そういう本を読んでいたのだね。)

図書館運動は何を残したか―図書館員の専門性

図書館運動は何を残したか―図書館員の専門性

これはまあ、逆に言えば、どんなディストリビューションを欲しがるかということで、その人なりの図書館観が示されるということでもある。
私としては…、
さしあたり、基本的な開発環境としてのアパッチ、MYSQL、いわゆるLAMMP、
そこに情報発信のための道具としてのCMS公共図書館のホームページのひな形としてサンプルなどもつけて)、
なんかがあらかじめ設定済みで組み込まれているもの。
インストールしたらすぐに使えて、しかも丁寧で豊富な解説がついている(もちろん日本語で。とほほ)。
そんなものがあれば、一発で私はそれを導入しただろう。
そんなものがほしかあったんだよ。(泣き)

(むかし野坂昭如さんがこの歌を歌っているのをテレビで見た記憶がある。題名のない音楽会?だったか)

Drupal(注1)を齧り始めたのは(歯はすでに欠けはじめているけれど)、Drupalで作られたとされる海外の図書館のサイトが良い感じだったからなのさ。
http://drupalib.interoperating.info/library_sites

どうでしょう、図書館情報学科の学生様、あるいはコードフォーリブ(違ったか)のみなさま。
図書館関係者向けのディストリビューションなぞ。


それはそれ。
ひとつのディストリビューションが多くのユーザーを獲得するのに重要なのは、全体としてのプログラムの構成や精度が重要なのはもちろんのこと、むしろ、広い意味でのインフォメーション{導入法や、使用法、問題が発生したときの解決法(よく分類された「質問と回答」コーナー)}などが整備されていることのように思われる。
そしてそれは本来図書館員が基本的に得意とすることではないだろうか。
図書館員のためのリナックスが、いつの日か「あれ図書館員じゃなくても、使えるぜ。図書館員で作ってるやつだから」などと広く普及することがあるならば、この社会における図書館員の認知と地位は確実に向上したといえるのではなかろうか。


(注1)
ちなみに国立情報学研究所NetCommonsというのもあるのだが、こちらでhttp://www.ishikawa-c.ed.jp/gakkou/index_nc.html小学校のサイトをつらつら見ているうちにいささか寒々しい気持ちになった。「かほく市立金津小学校」をクリックしてほしい。まあ、気にならない人は気にならないのだろうが。

You are the Jboy

このところずっと放っておいたブログですが、わけあって、12月からいくらかまとめて記事を書こうと思っています。
そこで肩慣らしの意味で、昔の下書きにいくらか手を入れた記事をアップしておこうと思います。

近況的なことを書いておくと、この放置期間の私としてのICT?的な変化は、パソコンのOSをXPからUbuntuに変えたことでしょう。
公共図書館の基本的な原則、その利用は無料である、に則ったOSとして、ウィンドウズよりもリナックス系が望ましいと考え、最も初心者向きとおもわれたUbuntuに移行しました。(まあ、あいかわらずおっちょこちょいな)
この投稿もUbuntu発?です。
最初はファイルの移動もままならず、あなたには権限がありませんとか言われて、お前は俺のパソコンだろうとぼやき返すありさまでしたが、ようやく日常的な使用には、ストレスを感じなくなりました。
GIMPInkscapeなども少しづついじってみたりしています。
下の画像は、はじめてInkscapeで作ってみた物。

DrupalというCMSを使ったサイトめいたものを構想しているのですが、そこで、シンボルマーク的に使おうと思っているものです。
Drupalはどうも基本的な日本語情報が乏しく、暗中模索といった状況で当然エネルギーはそちらに集中すべきところではあるのですが、のんきにシンボルマークなぞつくってみるのが私の性格なのでしょう。



以下は下書きから。
横芝光町立図書館事件のときに書いたものですが、全容が明らかになるまでは、いい加減なことを書くのはよそうと思って(私はそれを岡崎市の事件の時に学んだ)そのままオクラ入りになったものです。

あれから二ヶ月たったんだなあという感じですが、公共図書館的には大規模な惨劇だと思われたこの事件ですが、おおむね上記パソコン絡みの忙しさでフォローできていなかったので、その後の経過など、解説している文章などがあったら教えてください。
水増しという倫理的な問題だったのか、統計処理上の技術的な問題だったのか。

   …
横芝光町立図書館の問題をhatekupoさんの記事で知りました。
千葉日報では水増し事件と報道されたものですが。

私がこの記事を読んで、最初に思ったのは、自分に水増し?が可能かということでした。それもできれば明日から。
[開館から15年間で計約89万冊分]ということは、平均すれば年間6万冊。
年に200日でとすれば、1日300冊。
本を15冊書架から集めてきて、カウンターに並べて、貸出スキャンでバーコードを読み取って、すぐに返却スキャンで返却を済ます。
これを20回繰り返せば、一番基礎的なデータのレベルで、300冊貸出数を増やすことが出きるだろう。
慣れれば、10分かからずに終えることができる作業であると思えた。返却してしまえば、貸出者の記録は消えるので、足もつかない。1冊1日20回の貸出は不自然だが、あまりに想定外のことなので、誰かがそれを調べてみることもないだろう。

この場合、15冊のセレクトが重要で、難解な学術書(そもそも貸出数が少ない本)を選ぶと、「ベストリーダー」の統計に不自然さが現れかねない。
さてどうしようと考えて、思いついたのが『怪傑ゾロリ』シリーズでした。もともと貸出数の多いシリーズですから、多少貸出数が増えても不自然ではないし、シリーズとして本の絶対数が多いので、何冊かは書架に本が残っているから、集めてくるのも簡単。同様の理由で「パスワード」や「忍たま」も候補に上がるでしょう。

[町社会文化課によると、09年度の貸出冊数は一般図書が約27万4千冊、児童図書が約24万8千冊。10年度は一般が約17万5千冊、児童が6万8千冊。]
児童図書の減少がいちじるしいところから、私は私のアイデアの方向が間違ってないのではないかと思いました。たぶんこのての児童図書に、一般書からは同様の理由で池波さんや司馬さんの本が選ばれたのではなかろうか。うむ、私でも同僚の目をかすめて、何とかなるかなと思ったところで、気づいた。
水増し?の最盛期にはちょっと無理だ。最盛期には28万冊の水増し?をしなくてはならないことになるから、1日1400冊!
こうなると日常業務だよなあ。

   …
私が9月の時点で、そして今でも、気にかかるのが、この退職した職員のその時間の重みです。
人生でもとも活気に溢れているであろうその期間を、今彼はどのように思い返しているのだろうか。
思いついて聴き返してみたのがこの曲です。

♪掲げてた理想も今は遠く♪
これはこの事件だけの話ではありません。
勧められて?読むことになった本に、「貸出重視」に触れた部分がありました。

《67年8月、第14回図書館問題研究会大会(富山大会)は「公共図書館にとって、全域の住民に奉仕するのは基本であり、それは貸出しを通じて初めて可能となる。」(図問研『会報No85 1967.10,p.6』)と「貸出し」を重視する方針をかかげた》
 『大沢正雄60年代の東京の図書館を語る−薬袋秀樹著『図書館運動は何を残したか』をめぐって−』35ページ  

ここでは貸出しが、全域サービスという公共図書館の目的のための、当時としての最良の手段として選択されたのだということが示されています。
手段であったものが、目的化してしまったところが、日本の公共図書館にあるいびつさをもたらしてしまっているのは間違いないように思います。
新たな夢(理想)を、もう一度、みること。
そんなことが必要ではないでしょか。

Lights out tonight trouble in the heartland

これまた、いくらか昔に書いたもの。
書いている途中で、動きもあって、完全に文章は混乱し、またそれを修正する気力もなくしたので、相変わらずまとまりのないものになっている。
それはそれ、地震のあったせいで、この話題も遠景化しているように思えるので、ひっそりとアップしておこうと思う。



『ディックは、そんなことを考えているじぶんにいらいらした。問題なのは、岩がなにに見えるかではなく、その正確な位置なのだ』
     アーサー・ランサム『シロクマ号となぞの鳥』
シロクマ号となぞの鳥 (アーサー・ランサム全集 (12))

『文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ』
     村上春樹風の歌を聴け
風の歌を聴け (講談社文庫)



『人生の親戚』(大江健三郎著)は『韓国の若い詩人が「反共法違反」のかどで投獄され、さらに死刑判決を受けた』ことに対する抗議活動に、ある鬱屈を抱えながら「僕」が参加している場面から始まる。

『…テントに聞えて来る活動家の街頭演説は、――詩人が詩を書くことで、なぜ死刑にならなければならないか? と繰りかえしてもいた。それはそのとおり。そのようなことをもくろむ独裁政権に抗議するアッピールのために、僕もハンガー・ストライキに加わったのではあったけれども、若い活動家たちがあまりに確信をこめてこの文句を繰りかえすのを聞いていると、――しかし、詩人が詩を書くことよりほかのことで、死刑になるよりは筋が通っているのじゃないか? という思いも湧くことがあったのだ……』
この詩人は金芝河(キム・ジハ)氏のこと。1975年5月のハンガー・ストライキに実際に大江氏は参加した。
独裁政権』による金芝河氏の逮捕は1970年のよう。40年を経た2010年の日本の民主(党)政権下での「黒い彗星」氏の逮捕劇は驚愕に値しよう。


ブログ(http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110109/1294546371)のプロフィールを読むかぎり、「黒い彗星」氏の今回の逮捕は、ほかのなにかで逮捕されるよりも筋が通っているように思える。その逮捕が不当なものであることさえふくめて。

かつてのタコ部屋(飯場)の親方をめぐる、こんな話を読んだことがある。
飯場の親方は部下=子分が喧嘩をはじめると、喧嘩の原因にかかわらず、強いほうに加勢するのだという。弱い子分の味方をして、万が一にも負けた側になってしまうと、親方としての権威が損なわれ、仕事がやりにくくなるからというのがその理由だという。毎日決まった量の石を掘り続けることが求められる集団をまとめていかなければならない親方の知恵のありようではあると思った。ストリートワイズとでもいうのかな。

今回の警察の対応に同様の知恵を感じないでもない。
もちろん警察が、タコ部屋の親方と同様の対応をしたことに問題がないわけではないが、もともと治安維持とはその程度の行為ではなかったかという気もあらためてするのではある。
昨日と同じ現場を明日もそのまま続けることに、親方は手段を選ばず、その手段が「黒い彗星」氏の逮捕であったとすれば、「黒い彗星」が身を持って示したことは、この現場=世界がスプリングスティーンが歌うところの『バッドランド=荒地』にほかならないということではなかったろうか。


『生きていることが素晴らしいと感じることが罪ではないという考えを
 心に深く持っている者たちのために
 俺は俺の心を無視することのない 一つの顔を見つけたい
 俺は一つの場所を見つけたい
 そして俺はこれらのバッドランドに唾を吐きかけたい』
   

昔話に金色のりんごが繰り返し現れるのは、りんごが赤いということに対してわれわれが持ち続けるべき驚きを復活させるためであるとイギリスの物語作家はいった。
昔話に現れるりんごが金色であることに抱く関心を、赤いりんごに対しても抱き続けよ、ということだ。
詩人が言葉を使って、われわれにそのことをなすなら、「黒い彗星」氏は、ほかのなにかも使って、私になにがしか世界への(それは荒地への)関心を取り戻させてくれた。
私はそのことに関して、「黒い彗星」氏に感謝する。

ただ戦術的に考えると今回の行動には疑問がないでもない。同様のアクションが良い結果を生まなかったことを私も知っているから。だれもがリンチにあうことのない世界を望む。
なにか良い戦術を思いついて、でも人手が足りないという時には、私にも声をかけて欲しい。仕事が休みなら、足を運ぼう。イエスも、行って同じようにしやがれって言ってるし。


ps1
私は現在の北朝鮮の政治のあり方を良いものとは思ってはいない。また学校で行なわれる「民族教育」をどこの国で行なわれるのであれ基本的には好まない。
歴史を振り返るとき、民族が声高に叫ばれる時代が喜ばしい時代ではなかったと私は思う。しかしかつての日本がそうであったように、そのような要求の高まりが避けがたいものとして現れることに関しては致し方がないとも思う。

ps2
いわゆる朝鮮学校に対する在特会のデモに対して、そこに図書館があるからというその一点のみで、アクションを起こしうるのは、図書館関係者だけであろう。
船の博物学者であるディックが、「なぜ山に登るのか?」と問われれば、そこに貴重な植物や鳥類がいるから、と答えるであろうように。

pS3
『黒い彗星報告集会によせて』という文章を米津篤八さんという方が書いていた。http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110125/1295975896

《・昨年5月に韓国の光州【クァンジュ】で、光州民衆蜂起30周年記念のシンポジウムがあった際、在日朝鮮人の尹健次【ユン・ゴンチャ】さんがこんなことを仰っていました。「日本人は在日朝鮮人と連帯するなどという前に、自らの課題を遂行すべきだ。それは天皇制の撤廃だ。朝鮮人抑圧の元凶である天皇制を温存しておいて、在日朝鮮人と連帯することなど不可能だ」》
《・したがって、今日はダニエルさんの闘いに連帯するという立場ではなく、彼に告発されている被告人の立場から、彼が掲げたスローガンの意味を、私が個人的にどう受け止めたかをお話をしたいと思う。》という語りかたの文章。

考えたことをいくつか。

私は差別や排外主義やレイシズムに反対するけれど、この問題と天皇制をリンクさせることについては疑問がある。あるいは確信がない。
天皇制と差別や排外主義やレイシズムの関係で取りうるであろう組み合わせはおおむね次の4つ。
天皇制 無し  差別や排外主義やレイシズム 無し
天皇制 無し  差別や排外主義やレイシズム 有り
天皇制 有り  差別や排外主義やレイシズム 無し
天皇制 有り  差別や排外主義やレイシズム 有り
在日朝鮮人といわれる人へのあり方として、2と4は現実に存在している。4が日本であり、http://news.livedoor.com/article/detail/5315878/、2が韓国である。天皇制を持たない諸外国においても差別や排外主義やレイシズムが存在するのも、まあ当然の事実である。
差別や排外主義やレイシズム天皇制を結びつける主張は、諸外国において、差別や排外主義やレイシズムを行なわせるメカニズム=Xが日本においては天皇制という形をとる(多くの部分で重なる)という論理によるのではないかと想像する。それは歴史的な体験の上に立った実感として、主張されるのだろう。
しかし未来において、Xと天皇制の分離が不可能であることはほんとうに確実なものなのか。

目指す世界が差別や排外主義やレイシズムのない世界であるならば、3にほんとうに可能性はないのか、1のみが可能であるのか、は慎重であっていいと思う。
3に可能性があるとき、1を選択するのは、ただいたずらに目的の達成を困難にすることでしかない。


丸山真男がいいたいのは、非転向の共産党員は道徳的にすばらしいが、それは政治的な能力やリーダーシップの責任とは別であるということです。いうまでもなく、これは政治的位相を道徳から区別しようとしたマキャベリ政治学にもとづいています。具体的にいうと共産党の「責任」はつぎのようなことです。
 …
日本でも人民戦線を言い出した時点では、(一九)三十五年ですから、すべてがもう遅い。のみならず、共産党は、ロシアの歴史的経験をそのまま日本に適用したコミンテルンの(一九)三十二年テーゼを保持したままでした。それゆえに天皇制打倒を第一に唱えた。普通選挙による議会が始まったころに、議会主義を否定した。……しかもコミンテルンソ連に盲従した少数の非転向者が戦後に指導者として崇拝され、戦前と同じことをやろうとしたのではないか。丸山真男がいいたいのはそういうことです。》
   柄谷行人『倫理21』163p
柄谷行人はこのあとで吉本隆明について語りますが、関心のある方は本をどうぞ。
倫理21

『日本という社会的文脈の中では、徹底した右翼と徹底した左翼は同じことに帰せられる、ということが『天皇ごっこ』の一つの主題である。……『天皇ごっこ』が示しているのは、右翼と左翼が交錯するポイントに天皇崇拝がある、ということである』
   大澤真幸『虚構の時代の果て』
虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)

ということで。
『「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」
それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。』
   村上春樹『1973年のピンボール
1973年のピンボール [ 村上春樹 ]

臨時休館

《…そして、図書館は計画停電によって閉館することを避け、情報提供に努めてください。…》
ともんけんの中沢さんがウィークリーで書いていた。http://tomonken-weekly.seesaa.net/article/190475085.html

残念なことだが、勤務先の図書館は21日まで全館休館になってしまった。
地震後に臨時休館、日曜日は通常開館で、今日からの全館休館ということは、建物の損傷云々ではなくで、計画停電の影響ということだと思う。

計画停電の話を聞いたとき、現場で厄介なのは、オンライン化されている貸出処理だと思った。オンライン化以前を知らないスタッフには手書きの処理の知識もない。
こりゃ忙しくなるな、などと思っていたら、全館休館ということになった。
窓口の混乱を避けたいという自治体図書館中枢の現実的な判断だろうと推測する。

ただ、貸出処理の困難が即、臨時閉館につながったというのであれば、これは、公共図書館の存在意義といったことにつながってくることだと思う。
無料貸本屋」批判というのがあるけれど、貸出ができないから閉館ということであれば、みずからそれを認めるようなものではないだろうか。
事務的に貸し出し処理が無理なら、館内閲覧に限ってでも、とにかく開館だけはする、という判断があってもよかったと思う。
また、残念なことだが、こういうときにさっさと閉館してしまう場所が、『地域の情報拠点』にはなれまい。

被害の大きな地域の図書館関係者の困難がネットを通じて伝わってくる。
それぞれができることとして、開館が可能な地域では、開館して欲しいと私も思う。

この写真は去年のもの。
もうすぐ、バラの季節が来るはずだ。

新年の挨拶にかえて

この文章は去年の秋ごろに書いて、結局お蔵入りになったしょうもないものである。お蔵入りになるだけあって、全体にまとまりや論理的な積み重ねといったものがかけている。
しかし年が明け、しかもあっという間に一月が過ぎてしまったいうこともあり。新年の挨拶代わりに、アップすることにした。
1Q84 BOOK1 』のデータを集めたのは、10月の初旬ではなかったかと思う。なにをいまさらなんだよ、とわれながら思わずにいらねないところではあるが。

それにしても、考えているうち、より関心を惹く別のことにであうと、最初に考えていたことへの関心が薄れてしまうという、関心の持続力の不足はいかんともしがたい。このまま落ち着きのないおじいさんになっていくのかと思うとやれやれである。九割九分は私固有の問題だが、それはそれ、昔風の風格のあるお年寄りが減少しつつあることも事実ではないかしら。今現在の首相と昔のそれ(たとえば佐藤栄作)を比べると、なにかしら中高年の質が変化したことはいなめまい。まあ、昔は風格を演出するシステムがいまより機能していたということかもしれないが。プロレスラーなんかもそういえばそうだ。

昔、二十歳のころ、友達のあいだで、おれたちも年をとったら、演歌を聴くようになるのか?は、基本的な謎の一つだった。いま図書館でカウンターに立ち、私より年配のかたが、ハイロウズなんかを借りていく場面に立ち会うと、答えはひとつ出たと思う。
われわれは死ぬまでポップミュージックを聴き続ける。
シングル1枚でも、アルバム1枚でもいいが、私の精神の集中力は、おおむねその程度の時間しか持たない。


♪真夜中のラブコールはコイン1枚 タイムリミットの 3分間かけてみるわ♪
3分間の様式美っていうのはポップミュージックの基本ではあった。
音が薄いとか、ぱくり気味とか、映像が安いとか(撮ってんの、村上龍だよ って、誰かにうそをつかれたら、私は信じちゃうな)、文句のつけようはいろいろあるかもしれないが、良い曲だと思う。
この曲を聴くと、午後11時を過ぎたあたりのぱっとしないボーリング場を思い浮かべてしまう。雰囲気を喚起する力という意味で、スプリングスティーンの「ストリート」に通じるものを私は受け止めてしまう。


ついでに去年私が読んで、いまのところ、私には役に立っているとは思えない本を1冊あげておく。

「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)

本のなかに、プロレタリアートの位置づけについて触れた数行があり、私の関心はそちらに移ってしまったのだ。トホホ

それではみなさん、今年も良いお年を。


   読まずにすませ!私の長い文章!!
………以下の長い文章はおおむね次の2つのアイデアに収縮します。


1 人口の少ない県は、共同で、セカンドライブラリーを作ろう。
 例『高知県は、愛媛県香川県徳島県に呼びかけて、セカンドとして「大四国共同図書館」を設立しよう』

2 電子書籍の貸出サービスは自治体ごとで取り組むのをやめて、国立図書館から国民への直接サービスに移行しよう。



いやぁ良かった良かった。

ということで、この先に目を通す必要はもうありません。



   ………

『ファーストアクセスライブラリーとセカンドアクセスライブラリーについて。
   …ファーストって、どんな子なの? あらため セカンドってどんな子なの?
       市区町村立図書館と都道府県立図書館の揺らぎ』


    1
そもそも図書館を階層化する理由は、経済性と効率性と利便性を求めてということになる。

文化財的資科を後世に遺していくという保存の役割があることから、利用が減少したからといって簡単に廃棄は出来ない。一方、稀にしか利用されなくなった資料を、利用頻度の高い資料と混配することは、書架スペース上の管理コストが極めて不経済であり、かつ、利用頻度の高い資料の利用効率も悪くなる。そこで利用頻度が低くなった資料や重複する資料を書架から抜き取り(weeding)別置することにより、利用度の高い資料がより利用しやすく配置できるだけでなく資料の利用効率を高めることができ、高水準の図書館サーピスも可能となる。》http://wwwsoc.nii.ac.jp/anul/j/publications/reports/44/44_11.html

これは大学図書館の資料の廃棄について述べられたものだが、資料の収集・保存やレファレンスについて拡張しても(利用がまれだと推測される資料をファーストが積極的に収集することは難しいというふうに)、公共図書館、特にファーストとセカンドの機能分担に関する、理論的根拠となる考え方だと思う。
また、階層化が施設の側だけでなく、利用者にとってもメリットになることを確認しておきたい。《利用度の高い資料がより利用しやすく配置できるだけでなく…》

構成的には医療のシステムに似ている。体調が崩れたとき、人はまず近所の開業医を訪れて治療を受ける。そして大方の病気はそこで回復するが、それが困難なとき、高度で総合的な専門性を持つ大学病院などに治療の場所を求めることになる。
軽度の大量の患者と重度の少数の患者に、適切な治療を行おうとするときに、この階層化の方法は優れている。

階層化がそれぞれの階層の担い手に、それぞれの役割や機能を与える以上、安易にそれをひとつにすべきではない、というのが、県立・市立の合同案に反対する側の一般的な立論の筋になるだろうと思われる。

    2 だが…
それにしても高知ってよく知らないな?ということで、ちょっと調べてみました。
いちおう、定点観測的に1Q84 BOOK1 村上春樹著の所蔵状況などとあわせて。

高知県立図書館 図書収蔵能力 約30万冊
総人口 772,447人 面積 7,105.15km2
所蔵数4 在庫 0 予約2

高知市民図書館網 図書館・図書室合わせて22
総人口 340,605人  面積 309.22km2
所蔵数 22 在庫数 0 予約数 78

土佐市立市民図書館網 3館(本館1分館2)
総人口 29,030人 面積 91.59km2
所蔵数:3冊 貸出数:1冊 在庫 2 予約数:1件

仁淀川町中央公民館図書館 
総人口 6,917人 面積 332.96km2
仁淀川町立中央公民館3Fに図書館があります。
町民の方は貸し出し無料で利用できます。
およそ5000冊の図書のほか、2ヶ月に一度には高知県立図書館の自動車文庫で100冊ほど、県立図書コーナーの図書を入れ替えしています』
公民館図書館のページはこんな感じです。
http://www.kochinet.ed.jp/niyodogawa-t/ed/reading.html#tosho


ついでに東京都と神奈川県の場合も。
東京都立図書館
総人口 13,044,818人 面積 2,187.65km2 
所蔵1冊 貸し出し不可!!!

世田谷区立図書館網 16館
総人口835,918人 面積 58.08km2
所蔵数:82冊 貸出数:82冊 予約数:1448件
(中央図書館とその保存庫を合わせて 総資料数42万冊)

練馬区立図書館網 12館
総人口 714,520人 面積 48.16km2
所蔵数:54冊 貸出数:54冊 予約数:1436件

調布市立図書館網  11館
総人口 224,812人 面積 21.53km2
所蔵数:26冊 貸出数:26冊 予約数:934件

日の出町立図書館網 本館1 分室1
総人口 16,526 面積 28.08km2
所蔵数:1冊 貸出数:1冊 予約数:6件


神奈川県立図書館
 総人口 9,028,285人 面積 2,415.84km2
所蔵数2冊 内1冊常置 貸出数1冊 予約数61件

横浜市立図書館網  18館
 総人口 3,680,503 面積 437.38km2
所蔵数114冊 貸出数114冊 予約数2942
港北区 総人口 326,286人 31.40km2
に図書館はひとつみたい。)

葉山町立図書館 1館
 総人口 32,503人  面積 17.06km2
所蔵数:4冊 貸出数:4冊 予約数:32件

四国のほかの県立も
徳島県立図書館 10冊  3件  784,493人
愛媛県立図書館  1冊  6件 1,430,086人
香川県図書館  8冊 131件  996,667人
四国4県の総人口は、409万人である。


その人口の偏り方から、高知県は日本の縮図なんだろうなと思います。

いささか強引ですが、対応関係は
高知県=日本
高知市=東京都(あるいは都市圏)
土佐市高知県
仁淀川町仁淀川町
ということになります。

それにしても廃藩置県後、いくらかの変更があってのち、1890年にほぼ現在の都道府県の枠組みが確定したようなのであるが、以後120年を経て、もうどうにもならなくなってしまっていたんだなとあらためて思った。
ということで、もう無理なのね。いろんなことが

そもそも、この偏りこそ、われわれが目指し、時間をかけて、手に入れたものなのだ。
地方自治法8条の2と3を参照すると
2.当該普通地方公共団体の中心の市街地を形成している区域内に在る戸数が、全戸数の6割以上であること。
3.商工業その他の都市的業態に従事する者及びその者と同一世帯に属する者の数が、全人口の6割以上であること。

おお、あなたの望んだ世界。

それにしても、仁淀川町。今回の私の最大の発見である。結局私は、生まれてこの方ずっと基本的に都市生活者であり、公共図書館に不自由することがない幸運な人生を歩んできたのだ。
日本の人口統計をさっと調べて見るかぎり、おおむね日本人の150人に1人は「仁淀川町」に住んでいるみたいである。
公共図書館が、情報や知識のセーフティネットという役割をになうなら、『仁淀川町』抜きに図書館サービスを考えることはできまい。

   3
東京都世田谷区の人口83万人は、福井県徳島県高知県島根県鳥取県を超えている。世田谷区の図書館網、および中央図書館、保存庫のスケールは、すでに高知県立図書館のスケールを越えてしまっているのではなかろうか。人口から考えれば、当然といえば当然なのだが。
また、都立図書館がセカンドとして、『1Q84 BOOK1 』の収集に関して、一本筋の通った対応を示すことができるのもファーストが充実していることによる。
階層化の効果が実感できる良い例であろう。

サッカーでいえばGKが国立だとして、東京ー世田谷では、都立がDF、区立がMFとFWをというフォーメーション。
高知ー仁淀川町では仁淀川町がいささか非力な1トップ、残りのDFとMFをすべて県立で固める図式になっている感じである。
この現実を踏まえて、原理原則や理念で、高知県立図書館について語ることは困難であろう。

   4そこで考える
試案1

高知県の話。
高知県は、愛媛県香川県徳島県に呼びかけて、セカンドとして「大四国共同図書館」を設立しよう。四国4県の総人口は、400万人ほどであり、横浜市より40万人多いだけなのだから。このくらいのスケールになれば階層化の効果が効いてくるのではなかろうか。
四つの県立図書館あわせて23冊ある『1Q84 BOOK1』を1冊に減らして、22冊分の資料費や保存費を、四国のそれぞれの小さなファーストの予算にまわそう。理論的にも、「利用者」にとっても、それは理にかなっているのではなかろうか。

試案2
そこで。
近未来に目を向ければ、出版界が変革の時期を迎えている以上、今後の図書館の資料も、当面、オンペーパーとオンライン(インターネット回線のみならず、集積回路のラインも含めて)の二本立てが進んでいくと思われる。収集や利用のある部分が、オンラインでも行なわれるようになれば、ファースト=市区町村立という図式にとらわれることもないだろうと思う。

堺市の図書館がNECのシステムでサービスを始めるという記事が先日出ていたが(http://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/20101222_416363.html)、国民のすべてにできるだけ公平・平等な図書館基礎サービスをと考えるなら、オンライン部分(電子書籍貸出)に関しては、国立図書館が国民に直接資料提供を行なっても悪くない気がする。ファーストの一部機能移転ということになるが。コストパフォーマンスでいえば、そのほうが有利な気がするのだが、素人考えというものだろうか。
仁淀川町」民にできるだけ早く、できるだけ充実した図書館機能をと考えれば、図書館建設費をどこかからかき集めてくるよりは、むしろ現実的ではないかと思う。
国に権限や機能が集中することを好まない、そういったタイプである私だが、知る権利や知る自由の公平さをめぐる議論になれば、国立普及を要望する「仁淀川町」民には勝てまい。

しかしオンラインブックを国立図書館に譲り渡した「近所の図書館」に残るのがオンペーパーの資料だけだというのは悲しい。プラスアルファ、近所の図書館だけに可能なサービスを、いまのうちに吟味し整えておくことは重要だろう。
もちろん、国立にも改革の必要性はある。いわゆる全点保存は、セカンドとの重複を含むから、現状では、効率性という観点から見るかぎり、無駄が多いのは間違いないのだ。


   4
日本人男子の身長の伸びが今年になって止まったときく。あるしゅシンボリックなことだと思う。もうでかくなるのはあきらめて、別のやり方を探し始めるときなのだろう。
江戸時代を振り返れば、それは案外日本人向きの時代ではないだろうか。洗ったり練ったりして磨いていくことが「洗練」であるのなら。とにかくいちど、洗い落とせるものは洗い落としてみては。


ps
1上記サイトで。
《廃棄を困難にさせている理由として、
 ・個々の資料について不用・廃棄の是非の合意が得られない
 ・手続きが煩雑である
 ・規程類が未整備である
 ・他大学等の図書館で保存されているという保証がない
の順となっている。》
最後の《他大学等の図書館で保存されているという保証がない》が公共図書館において、重要だと思う。これもまた、セカンドライブラリーの存在意義と密接につながってくる問題であろう。


村上春樹のファンにとっては、大都市に住むことが単純に有利な選択とはいえないというあたりが面白い。結局、ファーストは全体として大量の「複本」を抱えることがその任務であり、単館(あるいは単館網)の複本の多少を問題視することは、意味がない。批判を気にせず、必要ならばがんがん購入して欲しいものである。


ここに来て、「大活字」版の『1Q84 BOOK1』の蔵書も増えていて、順番待ち的には「大活字」版のほうが有利だったりする。いちおう情報として利用者にお伝えしたりもするのだが、微妙といえば微妙かも。(ここに来て大活字版の『1Q84 BOOK1』の製本に難があって、ページが外れるなどの問題に出版社のほうで対応を始めているようである。いや、なんとも大変なことなんですね、1冊の本を出版するということは)

4なんというかこのところの私は基本的に低調ですが、まあ、元気です。

カーリル 図書館検索サイト

『カーリル』http://calil.jp/
近所の図書館で蔵書があるか、借ーりられるかなどを検索できるサイト。
twitterでつぶやかれていて、のぞいてみたら、いい感じ。
なんか、楽しくなってきた。
こうゆうサイトがあってもよかったって、思う。
このさきの可能性も強く感じる。

あと、このサイトで、サイト利用者が図書館から借り出した本の記録を自分の選択でサイト内に簡単に残していけるような機能を付け加え、その記録をもとに、いわゆるレコメンドサービスを提供するようになれば、公共図書館の貸し出し履歴をあくまで残さないといった信念が、それならそれで結構というレベルで、乗り越えられそうな感じもする。
それぞれ都合や事情もあるし、補い合って、全体として使い勝手がよくなればよいと思う。

BGM
『楽しい時』佐野元春
http://www.youtube.com/watch?v=GADyBopagS8

フェレットが頭の中でぐるぐる

    はじめに
ブックマークしてくださったみなさん、わざわざリンク先のサイトを訪問してくださったみなさんに感謝します。
取り急ぎ、リアクションとして考えたことをアップしておきます

    1
さて、私は反省をしています。私のブログはそのブログ名によって、もともと訪れる人が限定されていて、そのため、現在の公共図書館に関する基本的な情報を共有しない人に対して、説明不足の部分が多々あったことについてです。

ブクマを見て思ったのですが、ともんけんウィークリー2010年02月10日の記事で紹介されている『みんなの図書館 2010年3月号』を知っている人と知らない人で、3月1日の記事の印象が大きく変わるようです。この雑誌はどこの書店にも、どこの図書館にも置いてあるというわけでもはないので、読んでみてくださいともいいがたいわけですが。

たとえは唐突ですが、子供グループがお菓子を買っている。A少年がみんなのぶんもまとめて払っている。この瞬間だけに居合わせた場合、これはそういうこともあるかなと思うのが普通かもしれません。
私たち大人でも飲みにいって、懐具合が暖かい1人が「今日はおれが持つから」といったことは時折あるでしょう。ただこの場合、結局、持ちまわりで、長いスパンでみれば、案外公平な負担ということになるようです。
しかしA少年が長期的かつ常に、すべての払いを背負わされている場合、そこに問題が潜んでいる可能性を私たちは感じるでしょう。
よく似た印象を私はブックマークコメントでのコメントが二分されていることに対して感じました。
全体として、これは明らかに私の「報知力」のなさに起因するものと思います。

そこでいくらか基本的な情報・説明を後半で書いてみたいと思います。

    2
md2takさんの《だいたい差別してるんなら千作君を非正規に例えるはずがない。》
sigikoさんの《非正規職員をフェレットや毛玉に例えている訳ではなく、「ストレスや不満を溜め込んだ自分」を「毛玉を溜め込んだフェレット」に例えているだけでは 》

このラインは私も繰り返し検討しました。
書き手がフェレットの千作君をかわいくてかわいくて仕方がないと感じていることは文章からにじみ出ています。そこから《差別してるんなら千作君を非正規に例えるはずがない》という考えは、当然視野に入ってくるものだとおもいます。

フェレットと毛玉、そもそも、この2つの関係はとても複雑です。あいだに「フェレットの毛」をはさんで、フェレットフェレットの毛とフェレットの毛玉の三つの関係を考え始めると、とても悩ましくなります。
これは人間が、「私の髪(私はセルフカットなので切った私の髪を毛玉!にしてゴミ袋におしこむわけですが)」、「私の爪」と考え始めて、じょじょに核心部分?に近づいて「私の私」などにたどり着いて、何を考えてるのかわからなくなることに似ています。

私は書き手の意思を確定しようとすることに強い困難を感じましたし、それは今も続いています。『悪い感情を持ちえません』と書きましたが、それは今も変わりません。。
T-3donさんのブクマコメント《おそらく、毛玉の比喩は単に自身のストレスを喩えた物で正直な感想の吐露でしかない、と考えているだろう》と同様の印象も持ちました。

sigikoさんの《非正規職員をフェレットや毛玉に例えている訳ではなく、「ストレスや不満を溜め込んだ自分」を「毛玉を溜め込んだフェレット」に例えているだけでは 》という分析には今でも一理を感じています。「硬い殻を持った弱い卵の一つではないかと思います。」と書きましたが、これは書き手=フェレットのライン、自分を人間と比べてか弱くしかも毛玉を溜め込んでしまったフェレットにたとえているというsigikoさんの分析の筋と同様の考え方からのものだとおもいます。
また非正規を大好きなフェレットとたとたうえで、非正規への好意の表現と考えることも可能性としてはありうるように思います。


しかし、この文章は、より深い寓意もこもる比喩的な文章であるという直感も、強くありました。「おれたちは毛玉か」という思いを一読して持ったからです。私は全体として、よい印象を持ちませんでした。
そこで私はメタファーについて考え、記憶に残っていた村上さんのスピーチをあらためて読み直すことになったのです。
村上さんはスピーチで比喩が多様な意味づけを持ちうると語っています。

私の筋道、別様の解釈はこのようなものでした。
職場A この場合書き手に毛玉は発生しない  正規職員のみ         。
職場B この場合に毛玉が発生する      正規職員+非正規職員(これは明示されていない)+毛玉(そして毛玉の材料の供給源はフェレットです。) 

職場Bから職場Aを除いたとき、そこに残るのは
非正規・毛玉・フェレットです。
この3つに親密な関係を見るのも、比喩の解釈上、正当で、アプローチとして一理あるものと考えました。

「なるほど。」
と安直につないでいますが、おもえば私の文章にも、前半と後半で、溝があります。
村上さんのスピーチを読み返して、後半部分のめどが立ったという感じでした。


    3
それにしても比喩のつらなりが人によってはっきり別れるということに、私は関心を持ちました。そこで、あらためて考えたことを書いておきます。

bsumoruさんのブクマコメント、《嫌なものを嫌と言わせないようにするのは間違ってる 》がヒントになりました。
ふたたび、書き手の記事を読み返して、書き手が嫌なものを嫌と直接にいっていないことに気づいたからです。そもそも書き手は「非正規」という言葉も使っていませんし。
もし書き手が《嫌なものを嫌と》はっきり書けるのであれば、前半のフェレットの部分はいささか冗長です。また正規職員だけの職場の話にたいして、そうでない職場の状況を説明していません。
一般に寓意を用いた表現は嫌なものを嫌と明示的に書きえないときに使われることがおおいものでしょう。

そこで書き手が嫌なものを嫌といえない理由を、基本的な事柄に対する説明を加えながら、考えたいとおもいます。

そもそも現在の公共図書館は、戦争の時代の日本という国家のあり方を徹底的に反省し、そこから少しでも遠ざかろうとする、おおむね進歩的とよばれる広がりの大きな運動とともに歩んできたといってよいと思います。おおむね護憲派であり、9条を信奉し、平和運動と労働運動に積極的にかかわり、人権について考え、市民が好きで、差別を嫌う。(注①)
特に70年代からの「市民の図書館」運動は、草の根的な市民運動とともに、民主的な機関としての公共図書館を日本中に根付かせようとする運動で、実際に力を発揮し、現在も力を持ち続けているように思います。

私は図書館問題研究会もそのような団体であると認識しています。
図書館問題研究会のホームページにアクセスして(http://www.jca.apc.org/tomonken/)そのアドレスから「tomonken/」の部分をカットすれば、図書館問題研究会が使用していると思われるネットサービスを確認できますが、そこから図書館問題研究会が、愛とか平和とか自由とか環境とか平等とかを重んじるムーブメントと親和性の強い団体であることがうかがえます。

私は70年代を義務教育期間にあてましたから、このタイプの運動にシンパシーを感じる人間です。9条の会の呼びかけ人のひとりである大江さんの新作をせっせと読む人間でもあります。
ともんけんウィークリーの記事には、ほぼ批判的なブクマしかしませんし、ときには批判的な記事も書きますが、いっぽう、市民系の図書館団体には、できるなら、清く正しく美しく、市民の星を目指して、一点の曇りもなく、王道を歩いていってほしいという気持ちがあるのです。

これは私のジレンマですが、私は書き手にも似かよったジレンマを感じます。
書き手のなかで、非正規職員への好悪が混在しているように思います。それは市民への好悪ともつながるものではないかと思います。

公共図書館界は、激動の時期を迎えています。
これは基本的に日本という国が貧乏になったという、みもふたもない問題と直結しています。右肩上がりの成長という幻想が崩れたとき、借金の問題が現実的な問題として現れたものです。

経費削減の波を公共図書館はまともに受けてきました。現状のサービスを維持しながら、いかに費用を抑えるかがひとつの課題となり、非正規職員を増やすことで対応しようとしてきたといってよいと思います。しかも近年、公共図書館の民間運営(委託・指定管理など。注②)が進んでいます。そのように複雑化した職場では正規・非正規・民間問わずだれもがストレスを抱えています。(書き手のストレスも含めて)

さて、公務員は、そのサービス(公共図書館界では「奉仕!!」という言葉を使うこともあります)の対象としての市民・国民に、プラスの、ポジティブな感情を持つことが要請されます。
とくにもともと市民派公共図書館員は市民との連帯・協調を重視しますから、なおさらその要請は強まるでしょう。

たとえば委託が導入された図書館について考えてみましょう。この場合、それまで働いて直雇用の同僚が別の部署へうつり、いわば彼らを追い出すかたちで委託スタッフが登場するわけです。しかも委託導入後も図書館運営に別段の支障も問題もなければ、その運営形態は固定するか、拡大する(委託に任される仕事が増えていく・あるいは指定管理へと進む)ことになります。
指定管理となれば、正規公務員図書館員は、愛情と誇りを持って続けてきたその公共図書館から、別の部署へとうつり、ふたたび図書館へもどってこられる可能性は極端に低いものになります。その意味で委託スタッフは、みずからを追い立てようとする敵、ネガティブな存在ということになります。、

一方ある意味で委託スタッフは、図書館にスタッフとして現れる以前は、バリバリの民間人、ただただ一市民の集まりです。市民派の図書館員であればあるほど、連帯し協同しなければならない存在という側面を強く持っています。

この状況は、図書館問題研究会の会員であろうと思われる書き手をアンビヴァレンスな状況に追い込んだのではなかったかと思います。同一対象に対する、ポジティブとネガティブな感情の同居です。
この場合まじめな人であればあるほど、ネガティブな感情が自覚的に意識されることにブレーキがかかるでしょう。精神分析の用語でいえば抑圧とよばれる現象です。注③

書き手の記事を振り返りますと、正規だけの職場については、具体的な描写があるのに、図書館に戻ってからの部分に具体的な描写はありません。私もそうしましたが文脈から想像するしかありません。
書き手にも書けない部分(嫌なものを嫌といえない部分)があるのではないでしょうか。
書き手がフェレットの挿話を必要とした理由を私はそこにみます。

そもそもフェレット自体を《にょろんと胴が長く人見知りしない性格で、若干体臭が臭くもありますが大変元気でかわいらしい生き物です。》と描写します。プラスの側面(大変元気でかわいらしい)とマイナスの側面(若干体臭が臭くもあります)を同居させています。

書き手は、正規職員以外の図書館の働き手へのポジティブとネガティブのふたつの印象を、そのまま自己の内面のふたつの感情として、二つの側面ごとフェレットへとつないでいるように思います。
そこではポジティブな比喩のラインとして、自分=フェレットと、ネガティブなラインとしての、非正規=フェレットが、二つの側面として、同時につながることになるのではないでしょうか。

そうであれば、自分をフェレットにたとえることと、非正規をフェレットとたとえることは、同居可能なことだといえるでしょう。前者を持ち出すことで、後者の連想系を否定はできないということになります。
これは空から舞い降りてくる1枚の紙幣が見る人の立ち位置によっては表が見えたり裏が見えたりすることに似ています。ブックマークのコメントにみられるように、記事を読んだ印象が人によってことなるのは、その立ち位置に起因するのではないかと今私は考えます

それはそれとして、私は書き手の抱えたストレスの大きさをあらためて、深刻なものではないかと思うようにもなりました。

    4
マイノリティーという言葉も少し考えました
公務員というのも、日本の全体の人口から考えれば数字的には少数派ですし。
卵と壁、人は自分を考えるとき、自分で考えるとき、個人として考えるとき、常に少数派です。自分と完全に一致する考えを持つ他者はいません。集団もありません。それは困難な壁と直面することですが、そのとき、人は取替えのきかないかけがえのない個として存在するのであり、そこから遠ざかり、多数派のなかでしか、落ち着いた居所を見つけがたい世界は全体として望ましいものではないでしょう。

    5
T-3donさんの《往々にして差別者は無自覚。》について。 柄谷行人の引用で。

『たとえば、アメリカの黒人作家ジェームズ・ボールドウィンが若いころ、『オセロ』で黒人が嘲笑されているのが嫌で、シェークスピアを読むことができなかったと書いています。彼はやがて、それを「括弧に入れ」て、シェークスピアを愛読するようになったというのです。しかし、白人は『オセロ』を観ても何とも思わないでしょう。日本人も何とも思わない。ゲームに「オセロ」という名をつけているくらいですから。それを何とも思わないような日本人は、暗黙にレイシストなのです。これは或る意味で滑稽です。オセロはアフリカ系の黒人ではないし、広い意味で「有色人種」なのであって、日本人もその仲間に入るからです。

われわれが当たり前に思っていることでも、傷つき悩む人たちがいる。それを知る必要があります。』
  『倫理21』 180ページ 柄谷行人

同書109ページには、自覚性(知ってか知らずか)について、聖書を引用するパスカルを引用するヘーゲルを引用しています。
『ーパスカルはまた同じ箇所で十字架上のキリストの、その敵のための祈りを引用している。「父よ、彼等を許し給え。彼等はその為すところを知らざればなり。」ー若し彼等がその為したところを知らなかったという事情が、彼らの行為に、悪ではなく、したがって赦免を要しないという性質を与えたとすれば、これは無用の祈りになろうと。…ー

ヘーゲルは、「知らなかった」ことは罪であり、だからこそイエスは彼らのために神に赦しを乞うのだというわけです』

私はイエスでもクリスチャンでもないので神に赦しを乞いませんが。
私が思うのは無自覚・無知が発生させる問題の解決にむかう最初の1歩は、じつに簡単なものではないかということです。カチンときた人がカチンときたと、相手に伝えればよいのではないでしょうか。おおむね最初の一歩はいかなる場合も簡単なものですが、最初の一歩は、前進するために不可欠なことも事実でしょう。

    終わりに
さて、現状公共図書館の未来に影響力を発揮しうるとおもわれる組織・団体は限られています。私は図書館問題研究会をそのひとつだと思っています。願わくば、図書館で働くあるいは関心を持つ人のすべての声を聞き、混迷する図書館の問題を研究していってほしいと思います。


注①
図書館の自由に関する宣言
5 すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
 外国人も、その権利は保障される。

わたしは「利用」のみならず、「運営」に対しても同様であるべきと考えています。
また、図書館関係者のあいだで、図書館運営について、複数の多面的な可能性が検討されています。詳細を紹介し、可能性を吟味することは、今の私にはできませんが。

注②
この動きが「民営化」とよばれることがありますが、それについては批判的な意見もあります。
私の考えるに、たとえば国鉄がJRへと「民営化」されたとき、国鉄で働いていた人の多くは、JRにうつり、肩書きの違いはあるにせよ、おなじ仕事を続けられる場合が多かったと思われます。注④これは郵政「民営化」においても同様だろうと思います。
公共図書館の民注間導入の場合、それまでの公務員図書館員は役所内部で別の部署へうつり、肩書きを変えてそのまま図書館に残るということはおおむねないようです。(可能ではあるのですが)
また民間導入は、JRほどの独立的な運営を公共図書館にもたらすことは現状ではないものと思われます。基本的には自治体の指示に従って運営を行っていくことになると思われます。

その意味で一般に「民営化」という言葉から、受けるイメージと、図書館の民間運営のあいだには相当のずれがあり、それを「民営化」とよぶことは誤解を生じやすいのではないかというものです。
注④JRへの移行のとき、組合活動家に対して排除しようとする動きがあり、すべてがスムーズに進行したわけではないようです。

注③
自分の中にあって、かつ自分の中にはあってはならないとされるネガティブなものを他者に投影することが、差別感情の一因になるのではとという考え方があります。

PS
sakuraya_tohruさん。個人のレベルでいえば公務員が給料のぶんだけ、組織のレベルでいえば、全体の経費のぶんだけ、だれが見ても明らかな成果・結果を出していれば、そこから経費・予算を削減しようという発想自体うまれがたかったと思うので(事業仕分けもそうですが)、やはりどこか緩かったのかなという気がしています。

wackunnpapaさん、グリーンスターどうもです。いつかとびっきりのブログを見つけとき貼り付けるか、家宝として保存します。

BGM
http://www.youtube.com/watch?v=GobyrfX9SKA