『大草原』追想

セミフィクション、あるいはセミノンフィィションであるところのローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原シリーズ』は、当然、現実的な世界とかかわりを持っていて、『シルバーレイクの岸辺で』に登場する、デ・スメットという町は実在する。

シルバー・レイクの岸辺で―インガルス一家の物語〈4〉 (福音館文庫 物語)

シルバー・レイクの岸辺で―インガルス一家の物語〈4〉 (福音館文庫 物語)

思いたって、グーグルマップで、町はずれを散策してみた。
おお、ちゃんと線路がある!!!
父さんだ、父さんだ!!!


それにしてもこの町、福音館でガース・ウィリアムズが表紙で描いたとおり、基本的にまっ平らなところである。地平線だらけという…
なんというか町はそれほど繁盛していない、サスペンス系(エロチック?)アメリカ映画が時として舞台に選ぶ、「とある田舎町」を思いっきり、寂れさせたかのごとき、佇まいである。
先住民を追い立て、いろいろ苦労して、線路を引き、町を作ってはみたけれど、多くのみのりがもたらされたとは言いがたい。
村上春樹が『風の歌を聴け』で「不毛さ」について語っていたと思うが、なぜかそのことを思いだした。


大草原シリーズは、おおむね、自然とともに、ときにそれと闘いながら、力強く生きぬいていく、堅い絆で結ばれた家族を描いた名作ということになっていて、それはそのとおりでもあるのだが、同時に、作品の内と外で不毛さの感覚を刺激するところもある作品だと思う。


ここでなら王様のように暮らせると思った大草原はインディアンテリトリーの関係で追い立てられ、
プラムクリークで小麦を植えれば、収穫直前にいなごに全滅させられ、メアリーは猩紅熱で失明する。
一時安定期を迎えるが、幸せな結婚をしたと思ったとたん、ローラの夫アルマンゾは病気で足に障害が残ってしまう。
現実の世界で、父さんが農場主として成功を収めるということはなかったようだ。
ローラの娘ローズは作家・ジャーナリストとして成功を収めたようだが、子供はつくらなかった。
ローラの妹たち(キャリーとグレイス)も子供はつくらなかったようで、父さん母さんの家系は、孫の代で途絶えてしまったようだ(私がすこし調べた限りでは)
もちろん大草原シリーズ自体の成功ということはあるとして、なにやら不吉さを漂わせてはいないか。


スティーブン・キングなら、呪われた土地と一族のホラーとして書きそうな気さえする。
ホラーのセンスでなぜ呪われたのかと問えば、殺しすぎたからということになるのだろう、インディアンやバッファローや狼を。
一家がその土地を訪れた頃には、その殺戮はすでに過去のものであったとしても。
神々や精霊がその土地々々に住む、非一神教的な宇宙観をとるならば、そこに呪いやたたりが現れないはずがない。


ウィキペディアで、デ・スメットのあるサウスダコダ州を調べてみると、不毛さの感覚はいよいよ増していく。

自然が豊富で多くの観光客が訪れる州という華やかな面がある一方、ゴールドラッシュ期にはインディアンと白人との激しい抗争が繰り返された州でもある。全米で最も経済的に貧しい州であり、現在でも、インディアン保留地(Reservation)の貧困は、サウスダコタ州が抱える大きな問題として残っている。

サウスダコタの名前は、インディアン部族のダコタ族(スー族)の言葉「ダコタ(仲間)」に由来する。

1980年6月30日、連邦最高裁判所は半世紀にわたるスー族の訴えに対し、アメリカ政府による「ララミー砦条約」の違反と、「ラシュモア山」を含む「ブラックヒルズ」一帯の部族の占有権を認めた。しかし裁判所はこの土地の返還要求は却下し、1億ドルを超える賠償で応じる裁定を下した。スー族はこれを断固拒否している。

オグララ族、シチャング族の居住する同州の「パインリッジ・インディアン保留地」は、全米でも最貧困の地域として知られている。

同保留地の部族員の失業率は80%を超えており、また住宅事情も劣悪であり、どれも補修が必要なうえ、その1/3以上が水道や電気が未開通である。しかもこれらの家一軒につき平均して15人以上が住んでいて、それ以外の者たちは自家用車やトレーラーに住んでいる状況である。乳児の死亡率はアメリカ全国平均の3倍で、40歳以上の部族員の半分が糖尿病であり、またアルコール依存症を抱えている。部族員であるオグララ族の一人あたりの所得は年間で約7000ドル(全米平均の1/6未満)である。若年層は、米軍への入隊以外、仕事の望みがほとんどなく、わずかな福祉小切手で暮らす毎日である。パイン・リッジ保留地での平均寿命は50歳である。

2010年1月15日にオバマ大統領は議会で、全国のインディアン部族の生活改善を誓約した。 これに対し、オグララ・スー族部族会議議長テレサ・ツー・ブルズはこうコメントしている。「アメリカの“向こう側の人達”は、私達の生活水準が第三世界のものだと気づきもしません。 人々は、福祉施政やインディアン・カジノで私達が贅沢し、豚のように肥え太っていると思っています。私は、この保留地を扱うアメリカの議会の人達にこう言っています。どのように私達がここで生きていて、どういうわけでここに住んでいるのか、なぜ私達の子供が自殺するのか、その理由を自身で見つけ出してください。 私達が誰なのかということを学んでください。」


時間は問題を解決することなく、あらたな火種を日々ふくらませていくだけのように思う。
私はパレスチナ、ガザ連帯のクーフィーヤを首に巻いて暮らしている。先日スーパーで買い物を済ませて、マヨネーズやらしめ鯖なんかをレジ袋に詰めていたら、「ワタシ、ドバイです」という中近東風の中年男性から声をかけられた。片言のやりとりのすえ、その男性がクーフィーヤの入手先を知りたがっているのだと判断して、メールアドレスを聞いて、ショップのアドレスなどを送信したのだが、返信はない。

世界を不毛に感じるのは欝のせいか、世界が実際に不毛だから人は欝になるのか、悩みは尽きない。
おなじ長さの蛇が、たがいに尾から相手を飲み込んでいったときの、最終着地地点がうまく想像できない。

草花とよばれた少女

草花とよばれた少女

この本は最近読んだ。日系の少女とインディアンの少年のふれあいが、新鮮でさわやかだった。
ただ、日本語版?のタイトルはいささかどうか。

“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期 (ヴィレッジブックス)

“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期 (ヴィレッジブックス)

どうしてもこっちを連想してしまう。こちらは読んでいないが。