カニグズバーグ追悼

カニグズバーグさんが亡くなりましたね。年齢的にもいつ亡くなられてもとは思っていたので、突然の訃報という感じではありませんが、大きな星が一つ落ちたなという気がします。
遺作となった『ムーンレディの記憶』まで、高いクオリティを維持してみせたところが、カニグズバーグの凄みというか偉大さというか、まずは大往生であったのではないかと思います。

ムーンレディの記憶

ムーンレディの記憶

ケストナーリンドグレーンなどの1900年前後に生まれた作家を児童文学の黄金世代だとすれば、カニグズバーグやピアス、キャサリン・パターソン(日本人でいえば山中 恒)はその後を支えた銀の世代というふうに私は考えます。黄金世代がこどものこどもらしい喜びをいきいきと表現した世代だとすれば、銀の世代はこどもの困難と向き合うことで作品を作り続けた作家たちと大まかに言い分けることができると思います。そしてそれはそのまま児童文学の困難と直面することでもあったと思います。1908年の『赤毛のアン』とその100年後のオマージュと言っていい『ステフィとネッリの物語』を読み比べれば、児童文学の誕生から困難へという流れが俯瞰できもするわけですが、その間で40年にわたって、基本的に児童文学を書き続けたカニグズバーグの仕事はやはり偉業と呼ぶのがふさわしいものだと思います。

実際問題ということでいえば、カニグズバーグをカウンターに持ってくるこどもというのはほとんど見かけなかったりするわけですが、まあ、大人の勧める本を信用しないというか敬遠するというのは、こどものこどもらしい嗅覚ということで、その知恵のあり方こと賞賛されるべきものかもしれませんが、まずは1冊、ということでいえば『エリコの丘から』あたりというのが私の好みですが。

エリコの丘から (岩波少年文庫)

エリコの丘から (岩波少年文庫)

これは金原 瑞人 小島 希里共訳のほうが良いでしょう。
ps
 むかしのメモから。(『ムーンレディの記憶』を読む以前に書いたもの)
優れた能力を発揮するユダヤ系(スピルバーグからアインシュタインまで)の一人、E・L・カニグズバーグの作品の中でユダヤ系の問題はむしろその他の多くの個性的なキャラクター設定の中で、その個性のひとつとして埋もれてしまっているように見える。

清水真砂子の「子供の本のまなざし」は、カニグズバーグ、ピアス、ハミルトンを論じた本だが、そのカニグズーグ論のなかでもカニグズバーグユダヤ性についての直接の論及は見られない。そしてそのカニグズバーグ論の終わりでカニグズバーグについてこうまとめている。
 『…カニグズバーグの関心は徹頭徹尾人間に、もっと言えば、人間の間を生きぬくことにあった。日常つき合っていかざるをえない人々、逃げかくれできない人々との関係をどう考え、人々とどう折り合いをつけていくか、グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいのか、にあった…』と。
カニグズバーグ自身「クローディアの秘密」のなかで「グループの中にいながら決してその一部にならない技術を身につけました」と書いている。しかし、グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいのか、ということがどうしてカニグズバーグの中心的課題をしめることになったのか。これはユダヤ系の生きることの課題そのものではないのか。

世界的な大恐慌の翌年、1930年に生まれたカニグズバーグが1945年に終わった第二次大戦とその後明るみになっていくナチスによるユダヤ人虐殺に強く感情を揺さぶられたことは間違いないだろう。ユダヤ系の歴史的な生きづらさがリアルなかたちで突きつけられたのだから。ユダヤ系という問題をカニグズバーグから取り除くことはできない。それは「グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいのか」という問題設定がある普遍的な広がりをもつ、人が生きるための課題であるとしても、(それは現代の日本の若者にも共有されているだろう)その広がりは限定されるであろうからだ。つまりこの問題意識を共有しない時代、民族、国、人々の生き方を想像することは難しくはないのだ。むしろわれわれはこう問うべきなのだろう。カニグズバーグの問題意識をなぜわれわれは共有しうるのかと。

なにかが世界を覆っている、そのなにかを明らかにする糸口こそカニグズバーグに探るべきではないのか。カニグズバーグにはいまだ多くの秘密が隠されている。

子どもの本のまなざし

子どもの本のまなざし