カニグズバーグ追悼

カニグズバーグさんが亡くなりましたね。年齢的にもいつ亡くなられてもとは思っていたので、突然の訃報という感じではありませんが、大きな星が一つ落ちたなという気がします。
遺作となった『ムーンレディの記憶』まで、高いクオリティを維持してみせたところが、カニグズバーグの凄みというか偉大さというか、まずは大往生であったのではないかと思います。

ムーンレディの記憶

ムーンレディの記憶

ケストナーリンドグレーンなどの1900年前後に生まれた作家を児童文学の黄金世代だとすれば、カニグズバーグやピアス、キャサリン・パターソン(日本人でいえば山中 恒)はその後を支えた銀の世代というふうに私は考えます。黄金世代がこどものこどもらしい喜びをいきいきと表現した世代だとすれば、銀の世代はこどもの困難と向き合うことで作品を作り続けた作家たちと大まかに言い分けることができると思います。そしてそれはそのまま児童文学の困難と直面することでもあったと思います。1908年の『赤毛のアン』とその100年後のオマージュと言っていい『ステフィとネッリの物語』を読み比べれば、児童文学の誕生から困難へという流れが俯瞰できもするわけですが、その間で40年にわたって、基本的に児童文学を書き続けたカニグズバーグの仕事はやはり偉業と呼ぶのがふさわしいものだと思います。

実際問題ということでいえば、カニグズバーグをカウンターに持ってくるこどもというのはほとんど見かけなかったりするわけですが、まあ、大人の勧める本を信用しないというか敬遠するというのは、こどものこどもらしい嗅覚ということで、その知恵のあり方こと賞賛されるべきものかもしれませんが、まずは1冊、ということでいえば『エリコの丘から』あたりというのが私の好みですが。

エリコの丘から (岩波少年文庫)

エリコの丘から (岩波少年文庫)

これは金原 瑞人 小島 希里共訳のほうが良いでしょう。
ps
 むかしのメモから。(『ムーンレディの記憶』を読む以前に書いたもの)
優れた能力を発揮するユダヤ系(スピルバーグからアインシュタインまで)の一人、E・L・カニグズバーグの作品の中でユダヤ系の問題はむしろその他の多くの個性的なキャラクター設定の中で、その個性のひとつとして埋もれてしまっているように見える。

清水真砂子の「子供の本のまなざし」は、カニグズバーグ、ピアス、ハミルトンを論じた本だが、そのカニグズーグ論のなかでもカニグズバーグユダヤ性についての直接の論及は見られない。そしてそのカニグズバーグ論の終わりでカニグズバーグについてこうまとめている。
 『…カニグズバーグの関心は徹頭徹尾人間に、もっと言えば、人間の間を生きぬくことにあった。日常つき合っていかざるをえない人々、逃げかくれできない人々との関係をどう考え、人々とどう折り合いをつけていくか、グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいのか、にあった…』と。
カニグズバーグ自身「クローディアの秘密」のなかで「グループの中にいながら決してその一部にならない技術を身につけました」と書いている。しかし、グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいのか、ということがどうしてカニグズバーグの中心的課題をしめることになったのか。これはユダヤ系の生きることの課題そのものではないのか。

世界的な大恐慌の翌年、1930年に生まれたカニグズバーグが1945年に終わった第二次大戦とその後明るみになっていくナチスによるユダヤ人虐殺に強く感情を揺さぶられたことは間違いないだろう。ユダヤ系の歴史的な生きづらさがリアルなかたちで突きつけられたのだから。ユダヤ系という問題をカニグズバーグから取り除くことはできない。それは「グループの一部でありながら自分自身でいつづけるためにはどうしたらいいのか」という問題設定がある普遍的な広がりをもつ、人が生きるための課題であるとしても、(それは現代の日本の若者にも共有されているだろう)その広がりは限定されるであろうからだ。つまりこの問題意識を共有しない時代、民族、国、人々の生き方を想像することは難しくはないのだ。むしろわれわれはこう問うべきなのだろう。カニグズバーグの問題意識をなぜわれわれは共有しうるのかと。

なにかが世界を覆っている、そのなにかを明らかにする糸口こそカニグズバーグに探るべきではないのか。カニグズバーグにはいまだ多くの秘密が隠されている。

子どもの本のまなざし

子どもの本のまなざし

図書館系MLで流れてきた論文『公立図書館における書籍の貸出が売上に与える影響について』を読んで その1

図書館系MLで流れてきた論文
『公立図書館における書籍の貸出が売上に与える影響について』
http://www3.grips.ac.jp/~ip/pdf/paper2011/MJI11004nakase.pdf

目を通すのも礼儀かと、ざっと読んでみたのだが、専門家(経済学系)が専門家に向けて書いたもののようで、門外漢にはいささか辛い論文であった。
それはそれ、せっかく専門家が公共図書館をネタに書いた論文であるので、紹介もかねて、考えたことなどを書いておく。

論文を読むためにネットで収集した予備知識。
「最小二乗法について」http://szksrv.isc.chubu.ac.jp/lms/lms1.html
計量経済学http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E9%87%8F%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
計量経済学http://www.geocities.jp/acenakamura/keiryou.htm
「回帰分析」http://www.econ.nagoya-cu.ac.jp/~kamiyama/siryou/regress/EXCELreg.html
「一般化最小二乗法と識別問題」http://hnami.or.tv/d/index.php?%B0%EC%C8%CC%B2%BD%BA%C7%BE%AE%C6%F3%BE%E8%CB%A1%A4%C8%BC%B1%CA%CC%CC%E4%C2%EA
ということで、専門的な批評は不可能!!!なので、疑問点、考えたことなどを上げておくことにする。詳しい人に教えていただければ幸いである。
(ちなみに論文末尾にその名前が現れる岡本薫教授(主査)を検索していたら、池田信夫 blog(旧館)で、ボロクソに書かれていた。とほほ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/590d731afa789e69fda0420646fdcdcf


さて、全体で7章からなるこの論文、3章までは基礎づけの部分で4章の「モデルによる考察」からがまあ、本題ということで、面白くなってくる。
本を買うこと、借りることについて、あらためていろいろ考えさせられることになった。ありがたいことである。

うーんとうなったのが
『図書館で書籍を借りることは、長くても数週間程度の限られた期間に中古本を一時的に占有するに過ぎないので、同じ者にとって、
購入した場合よりも便益は下回ることが一般的である。』
というくだり。
私の結論をいえば、購入した場合の便益が借りた場合の便益を上回ることがあるのは本に書き込みをする必要がある場合のみ(あと、とにかく早く読みたい)ではないかというものだったのだが、まあいくつか考えたことなぞあげてみる。

例えば『地球の歩き方』といった旅行案内本。
ポーランドへ2週間の予定で旅行をすることになったA氏にとって、『数週間』『中古本』を借りることで目的は十分果たすことができる。たぶん賢いA氏は必要な地図だけコピーをして、経路を書き込んだりするだろう。便益が下回ることはほとんどない。

A26 地球の歩き方 チェコ/ポーランド 2012~2013

A26 地球の歩き方 チェコ/ポーランド 2012~2013

たとえば私にとっての漱石
私は漱石の小説は、ほぼ購入してあるわけだが、ちょっとした細かい部分を確認したいときは、青空文庫を利用するし、本気で読み返そうというときも、図書館から借りてくることも多い。引越ししたときにダンボールに詰めたまま、押入れに眠っている本も多いので、捜すよりは借りるほうが手っ取り早いのである。本を購入してみずから所有するということは維持管理のコストを自分で賄うということで、これはあんがい馬鹿にならないものだと思う。私は図書館は私に必要な本の保存庫とみなしているが、これは図書館の本質的な役割(資料の収集と保存)からいってもあながち、まとはずれな考えではあるまい。

また半分都市伝説みたいな事実として、たとえば「アラビア語」とかの日本人にとってはマイナーな言語の本を、あるいはプラトンなどの哲学書の古典を、借りては返しまた借りるを繰り返し10年以上にわたって占有する強者というのは結構いたりするものである。図書館の本が一時的にしか専有できないというのは、おおむね予約多数の人気本に見られるだけのはなしである。

唯一の購入の強みはスピードではないか。発売日に読みたいと思ったら、これはもう書店で購入するしかない。ということなんだけど。

ああ、人はどうして本を購入したりするのでしょう??

実用的とかわいいと。ボランティア奮闘記。

赤毛のアン』も、初版から100年ちょっとが経って、いささか古めかしくなっても良い頃だけど、いまだに現役感を維持しているように思う。
プリンスエドワード島聖地巡礼をする日本人はシーズンになればまだまだ相当な数がいるそうだし、私だって行けるものなら死ぬ前に(とほほ)一度は足を運びたいと思っている。

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

アンが古びない原因のひとつだと私が思うのが、アンの示す価値観が基本的に現代まで引き継がれているということである。

はじめてアンがマリラから3着の服をもらう場面。
『実用的で良い服だ』というマリラに、アンは感謝を示しつつ「かわいくない」と不満を漏らす。
この「かわいい」へのアンの感受性は100年後の今日でも、われわれの身近な生活の中に、たとえば携帯やスマホの製品開発のなかに生きている。

公共図書館も、ビジネス支援的方向などで実用的なバージョンアップを目指すマリラタイプと、図書館をかわいく的な心地を重視したアンタイプ(某氏の図書館に暖炉をこのような方向に含めることもできよう)と、双方の取り組みがある。

ということで実用性に欠けた私の取り組み。


ククク、まあまあかわいいでしょう?

職場とは別の近所の図書館で、いわゆる地区センター式の複合施設の一角にこじんまりとした図書館があるというスタイル。
ただ私が利用するのは図書館だけなので、私としては図書館の花壇という位置づけなのだが、図書館のスタッフって外に出てくることはあまりないので、施設管理系の職員とは顔見知りになっているのだが図書館のスタッフと話をする機会はこれまでなかった。
ところが先日、雑草取りなどをしていると、図書館スタッフのかたがやってきて、「利用者の方も大変喜んでいます」ウンヌンというありがたいお言葉。
「一人図書館をかわいく運動」あるいはフラワーテロリズム?が、一定の成果を上げたと言ってよいだろう。
ククク。

『大草原』追想

セミフィクション、あるいはセミノンフィィションであるところのローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原シリーズ』は、当然、現実的な世界とかかわりを持っていて、『シルバーレイクの岸辺で』に登場する、デ・スメットという町は実在する。

シルバー・レイクの岸辺で―インガルス一家の物語〈4〉 (福音館文庫 物語)

シルバー・レイクの岸辺で―インガルス一家の物語〈4〉 (福音館文庫 物語)

思いたって、グーグルマップで、町はずれを散策してみた。
おお、ちゃんと線路がある!!!
父さんだ、父さんだ!!!


それにしてもこの町、福音館でガース・ウィリアムズが表紙で描いたとおり、基本的にまっ平らなところである。地平線だらけという…
なんというか町はそれほど繁盛していない、サスペンス系(エロチック?)アメリカ映画が時として舞台に選ぶ、「とある田舎町」を思いっきり、寂れさせたかのごとき、佇まいである。
先住民を追い立て、いろいろ苦労して、線路を引き、町を作ってはみたけれど、多くのみのりがもたらされたとは言いがたい。
村上春樹が『風の歌を聴け』で「不毛さ」について語っていたと思うが、なぜかそのことを思いだした。


大草原シリーズは、おおむね、自然とともに、ときにそれと闘いながら、力強く生きぬいていく、堅い絆で結ばれた家族を描いた名作ということになっていて、それはそのとおりでもあるのだが、同時に、作品の内と外で不毛さの感覚を刺激するところもある作品だと思う。


ここでなら王様のように暮らせると思った大草原はインディアンテリトリーの関係で追い立てられ、
プラムクリークで小麦を植えれば、収穫直前にいなごに全滅させられ、メアリーは猩紅熱で失明する。
一時安定期を迎えるが、幸せな結婚をしたと思ったとたん、ローラの夫アルマンゾは病気で足に障害が残ってしまう。
現実の世界で、父さんが農場主として成功を収めるということはなかったようだ。
ローラの娘ローズは作家・ジャーナリストとして成功を収めたようだが、子供はつくらなかった。
ローラの妹たち(キャリーとグレイス)も子供はつくらなかったようで、父さん母さんの家系は、孫の代で途絶えてしまったようだ(私がすこし調べた限りでは)
もちろん大草原シリーズ自体の成功ということはあるとして、なにやら不吉さを漂わせてはいないか。


スティーブン・キングなら、呪われた土地と一族のホラーとして書きそうな気さえする。
ホラーのセンスでなぜ呪われたのかと問えば、殺しすぎたからということになるのだろう、インディアンやバッファローや狼を。
一家がその土地を訪れた頃には、その殺戮はすでに過去のものであったとしても。
神々や精霊がその土地々々に住む、非一神教的な宇宙観をとるならば、そこに呪いやたたりが現れないはずがない。


ウィキペディアで、デ・スメットのあるサウスダコダ州を調べてみると、不毛さの感覚はいよいよ増していく。

自然が豊富で多くの観光客が訪れる州という華やかな面がある一方、ゴールドラッシュ期にはインディアンと白人との激しい抗争が繰り返された州でもある。全米で最も経済的に貧しい州であり、現在でも、インディアン保留地(Reservation)の貧困は、サウスダコタ州が抱える大きな問題として残っている。

サウスダコタの名前は、インディアン部族のダコタ族(スー族)の言葉「ダコタ(仲間)」に由来する。

1980年6月30日、連邦最高裁判所は半世紀にわたるスー族の訴えに対し、アメリカ政府による「ララミー砦条約」の違反と、「ラシュモア山」を含む「ブラックヒルズ」一帯の部族の占有権を認めた。しかし裁判所はこの土地の返還要求は却下し、1億ドルを超える賠償で応じる裁定を下した。スー族はこれを断固拒否している。

オグララ族、シチャング族の居住する同州の「パインリッジ・インディアン保留地」は、全米でも最貧困の地域として知られている。

同保留地の部族員の失業率は80%を超えており、また住宅事情も劣悪であり、どれも補修が必要なうえ、その1/3以上が水道や電気が未開通である。しかもこれらの家一軒につき平均して15人以上が住んでいて、それ以外の者たちは自家用車やトレーラーに住んでいる状況である。乳児の死亡率はアメリカ全国平均の3倍で、40歳以上の部族員の半分が糖尿病であり、またアルコール依存症を抱えている。部族員であるオグララ族の一人あたりの所得は年間で約7000ドル(全米平均の1/6未満)である。若年層は、米軍への入隊以外、仕事の望みがほとんどなく、わずかな福祉小切手で暮らす毎日である。パイン・リッジ保留地での平均寿命は50歳である。

2010年1月15日にオバマ大統領は議会で、全国のインディアン部族の生活改善を誓約した。 これに対し、オグララ・スー族部族会議議長テレサ・ツー・ブルズはこうコメントしている。「アメリカの“向こう側の人達”は、私達の生活水準が第三世界のものだと気づきもしません。 人々は、福祉施政やインディアン・カジノで私達が贅沢し、豚のように肥え太っていると思っています。私は、この保留地を扱うアメリカの議会の人達にこう言っています。どのように私達がここで生きていて、どういうわけでここに住んでいるのか、なぜ私達の子供が自殺するのか、その理由を自身で見つけ出してください。 私達が誰なのかということを学んでください。」


時間は問題を解決することなく、あらたな火種を日々ふくらませていくだけのように思う。
私はパレスチナ、ガザ連帯のクーフィーヤを首に巻いて暮らしている。先日スーパーで買い物を済ませて、マヨネーズやらしめ鯖なんかをレジ袋に詰めていたら、「ワタシ、ドバイです」という中近東風の中年男性から声をかけられた。片言のやりとりのすえ、その男性がクーフィーヤの入手先を知りたがっているのだと判断して、メールアドレスを聞いて、ショップのアドレスなどを送信したのだが、返信はない。

世界を不毛に感じるのは欝のせいか、世界が実際に不毛だから人は欝になるのか、悩みは尽きない。
おなじ長さの蛇が、たがいに尾から相手を飲み込んでいったときの、最終着地地点がうまく想像できない。

草花とよばれた少女

草花とよばれた少女

この本は最近読んだ。日系の少女とインディアンの少年のふれあいが、新鮮でさわやかだった。
ただ、日本語版?のタイトルはいささかどうか。

“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期 (ヴィレッジブックス)

“It”(それ)と呼ばれた子 幼年期 (ヴィレッジブックス)

どうしてもこっちを連想してしまう。こちらは読んでいないが。

『嘘つき娘』は裏切らない

今年読んでよかったと思う本の一つが『嘘つき娘』。

嘘つき娘

嘘つき娘

マウゴジャタ・ムシェロヴィチは井上ひさしサリンジャーを足したような作家かななどと感じるところもある人で、私好みの作家である。
『嘘つき娘』についていえば、主人公は女の子であるが、さしあたり『青葉繁れる』を想像してもらえればいい。
男の子に一目惚れした女の子が、その一心で、故郷をはなれ彼の住む街の学校に進学するという強引な展開はどこか少女漫画を思わせるものでもあるが。

児童文学という枠組みでいえば、愉快な子供や切ない子供、とにかく子供をいきいきと描くのがうまい。このところ少なくなった巨匠感漂う(ピアスやパターソンのような)じつに実力派の作家だと思う。
しかし、どうも翻訳が進んでいない。


金曜日うまれの子 (世界の青春ノベルズ)

金曜日うまれの子 (世界の青春ノベルズ)

ナタリヤといらいら男

ナタリヤといらいら男

  • 作者: マウゴジャタ・ムシェロヴィチ,田村和子,Malgorzata Musierowicz
  • 出版社/メーカー: 未知谷
  • 発売日: 1998/05/01
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
ノエルカ

ノエルカ

  • 作者: マウゴジャタムシェロヴィチ,Malgorzata Musierowicz,田村和子
  • 出版社/メーカー: 未知谷
  • 発売日: 2002/01
  • メディア: 単行本
  • クリック: 2回
  • この商品を含むブログを見る
こうして並べてみると、流れはなんとなく想像がつく。
天下の岩波書店から出版されたが、ーそれは力を評価されてということだと思うがー、商業的に伸び悩み、あらためて、未知なる出版社から本が出版されるに至っている。

表紙の雰囲気から、両社の本づくりに大きな隔たりがあることは想像がつくけれど、これに関しては、まず未知谷の方向性が正しいと思う。
岩波の表紙は全体としていかにも陰気くさい。黄金の90年代に売れる本ではなかったろう。テイスト的には70年代を引きずりすぎている。
やっちゃったな、岩波!という感じがしないでもない。

マウゴジャタ・ムシェロヴィチのサイトをのぞいて、本家の表紙などを見ても、いくらか癖のある中東欧ふうなポップ(ポーランドポップ?)テイストが基調になっている。(もちろん時代とともに版を変えてきたのかもしれないけれど)
http://www.musierowicz.com.pl/

マウゴジャタ・ムシェロヴィチの作品に現れる基本的な特質のひとつがユーモアの感覚だと思うのだが、岩波の表紙がそれをよく伝えているとは思えない。
『クレスカ15歳 冬の終りに』に、ひとんちの食事時に紛れ込んで、いっしょにご飯を食べる愉快な女の子が登場するとは想像がつくまい。
はじめて読んだ頃のメモ。
『この作品に出てくるちっちゃい女の子が傑作。なぜかよそんちでお昼ごはんを食べている。ここぞというときに必ず現れる。なにかあるんだか、ないんだか、まああるんだけど、クレスカそっちのけで大活躍。一読の価値あり。』
山中恒の『とべたら本こ』や『ぼくがぼくであること』もよそんちで食事をする子供が登場する物語なのだが、子供が他所の家で食事をするのは、ある危機の状態を示しつつ、どこか子供ならではといった、ユーモラスな感じがする。(西原理恵子に漫画で描かせたい)子供サバイバルの基本技のひとつかもしれない。無人島に流れ着いたり、モンスターと戦うばかりがサバイバルではないんだなぁと思う。

マウゴジャタ・ムシェロヴィチのこれらの作品は、ゆるやかなサーガをなしているそうだ。登場人物がゆるやかに重なりあったりしている。クレスカで出てきた女の子の一六歳の時を金曜日で描くというような。
老人、大人、青年、子供、それぞれに魅力的な人物が、関わりあって、物語は進行していく。
そういう意味では、小学校低学年には少し難しすぎるだろう。そのぶん中学生以上のすべての人が楽しめるものになっていると思う。
図書館のYAの棚に並んでいる、そんじょそこらのアメリカ人作家よりは、格は一つ二つ上だと思う。
さしあたり読んで裏切られたことはない。
ということで、翻訳の田村和子さんを心から応援したい。


そういえば、『青葉繁れる』や『ドクトルマンボウ青春記』『青い山脈』あたりをYAとして、読み継いでいくための工夫などもあっていいものかと思う。


(どうでもいいけど最近のホームズシリーズはラノベ調というか、ホームズもワトソン君もすごいことになっている。まあ、それで新しい読者が引き込めれば御の字であるかもしれないし。あつかいは『若おかみは小学生!』と一緒である。スムーズな移行ということでは正解かもしれないが)

名探偵ホームズ 緋色の研究 (講談社青い鳥文庫)

名探偵ホームズ 緋色の研究 (講談社青い鳥文庫)

若おかみは小学生! 花の湯温泉ストーリー(1) (講談社青い鳥文庫)

若おかみは小学生! 花の湯温泉ストーリー(1) (講談社青い鳥文庫)

それにしても、メッシへのインタビューとホームズのこの表紙は、基本的な日本人の体質を示しているのでは、とふと思った。空気を読むということへの賛否はあるけれど、読もうとする対象がうちわに限られているというあたりが問題なのだと思う。神のみを恐れるは勇者の、神をも恐れぬは悪漢の、一神教文化圏における最大級の表現だそうだが、日本人に、こういう感覚はない。

海へでるつもりだったんだが。あるいは、クラウン→カローラ→カブ

11月一杯で、仕事を辞めるはずだったのだが、なんだかんだで今も図書館に通っている。
職場で堂々じゃなくて労働問題が起こって、一人プチ労働争議で、首をかけたのだが、要求は認められなかったにも関わらず、同僚の引き止め(辞めなかったら、〇〇さんを膝に乗っけさせてあげる)に屈して、仕事を続けている。しかもだれも膝に乗ってはこない。

仕事をやめて、今月から、晴れてフリーの身になって図書館なぞについて、考えたことをまとめて書くつもりだったのだが、企画はまたしても倒れた。
そこでぼんやりと考えたことをぼんやりと書きとめておこうと思う。

「直営でやっていけるところは直営で」
「会社はきちんと選ぼう」

図書館への民間導入は、つまるところ、クラウンの値段でカローラを売るのはやめにして、カローラカローラの値段でというあたりが、ひとつのモチーフではなかったかと思う。それを私は支持するけれど、カローラの値段でカブ(原付バイクとしては傑作車ではあるけれど)を売りつけられるとすれば、あらためて利用者として著しく不満をもつだろう。

まだ日の浅い公共図書館への民間会社導入であるが「ダメ会社」という烙印を押されて、図書館業界から撤退を余儀なくされた会社がどれだけあるだろう。スクラップアンドビルドこそ市場原理の良いところで、淘汰圧力がかからないようでは民間導入の意味もない。さしあたり現存するダメな会社が業界から姿を消したあたり(第1氷河期)で、民間導入をするならするほうが良いように思う。もちろんクラウンの値段でクラウンのサービスを提供し、それが市民に支持されるのなら(そしてそれが経済的に可能なら)、それが一番だとも今は思ったりもする。

それはそれ。
私は末端スタッフとしてよりも、花壇ボランティアとして図書館とかかわってきた期間のほうが長い。
むかし行きつけの図書館の花壇があまりにみすぼらしく、かつ、誰からも目をかけてもらえずにいるのに心打たれて、発作的にミントなぞを植えこみ、いつの間にか、ほぼ公認の完全自腹花壇(自主管理花壇『変態』と名付けた)ボランティアである。別の図書館のカウンターに立ち始めたのはそのあとなのだ。仕事を辞めるのが現実味をおびたとき、再びボランティアオンリーに戻るのだという思いがした。
そして12月。ちょうど、冬の園芸シーズン(剪定やら寒肥やりなど)に突入したので、オフの日は花壇に足を運ぶ。(それ自体が現実逃避の傾向をもつことは否めないけれど)
先日、ピートモスなど土壌改良資材をまとめて8000円ほどネットショップで購入した。このところそれをせっせと花壇にすきこんでいる。
ピートモスは6CUとかいうビッグサイズのもの。カンガルー便のお兄さんでさえ、一人で2階へ運べなかったという巨大さである。

[rakuten:gardenstyle:10003857:image]
このピートモスを使い切るまで私のプチ幸福感は持続されるであろう。
この薔薇は『オフェーリア』。去年植えたもの。とても良い香りがする。
今年も薔薇は咲き続けた。

クリスマス シーン

クリスマスシーズンを迎えて、クリスマス系の本が図書館に並ぶ時期が来た。
こういう時はどうしてもクリスマスの話がメーンになる(それこそ、タイトルにクリスマスやサンタが使われるような)そんな絵本が選ばれる。

一方で、クリスマスがワンシーンとして描かれる、そしてそれが印象に残るような本というのもある。

大草原の小さな家 ―インガルス一家の物語〈2〉 (福音館文庫 物語)

大草原の小さな家 ―インガルス一家の物語〈2〉 (福音館文庫 物語)

マルベリーボーイズ

マルベリーボーイズ



渋くクリスマス気分を味わうにはこの辺りが私のおすすめです。

大草原の小さな家はもう有名なシリーズですね。シリーズの中にクリスマスのシーンはいくつかあったと思うけれど、『大草原の小さな家』が一番グッとくる。

『マルベリーボーイズ』はそれほど有名な作品ではないかもしれませんが、このところ書かれた本の中では、とても良いものだと思います。
イタリアからアメリカへたったひとりで、「移民」することになった少年の話です。
中盤までは暗く悲惨な話が続きますが、あるきっかけで、ぐっと気分は上昇していきます。最後にまた大きな悲劇が起きて、その後のエンディングがクリスマスの頃ということになります。しんと染み入るような美しいシーンです。