今日の覚書

いささか混乱してしまったので、覚書程度に短い話を書く。

千代田区図書館(http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/guidance/index.html)の利用案内を見ると、そこに現在の市民図書館が抱えた問題のいくつかを見つけることができる。

先日の記事にも書いたけれど、千代田区
千代田区内在住・在勤を問わず、どなたでも利用できます。≫
というように、来るものは拒まず式の、開かれた市民図書館のありようを基本にしている。

それは、日本図書館協会図書館の自由に関する宣言(1979改訂版)の前文の
≪5 すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
 外国人も、その権利は保障される≫
という高邁な理想を、現実的な場所に着地させようとするものだと考えることもできよう。

しかし、利用案内にはこんな文章もある。

≪※ 千代田Web図書館千代田区内在住・在勤・在学の方へのサービスです。
※ 2008年4月1日より、千代田区内在住・在勤・在学の方へのサービス向上に努めるため、貸出券の色を変更いたします。≫

千代田区内在住者 桃色(ピンク)
千代田区内在勤・在学 緑色(グリーン)
その他の方 水色(ブルー)←変更なし ≫
だってさ。

そして実際に、図書/紙芝居/雑誌の貸し出し期間が
区内在住者では 10冊 2週間
区外在住者では  5冊 2週間
と、差がつけられている。

想像するに、なぜ、非住民へのサービスを、千代田区の予算で行なわなければならないのかという、千代田図書館への直接の出資者である住民系利用者の不満(これはまあ、当たり前と言えば当たり前だ。自分のお金で立てた我が家に、他人が我が物顔で踏み込んきて、コーヒーなんぞを飲んでいるのを見かけたら、それは、誰だって、腹が立つに決まっている)を考慮しての、5冊分の差という措置ではないだろうか。


開かれて公平であることの、不公平性への不満に対して、5冊分の差という、いわば全利用者に対する不公平(利用者のランク付け)で、バランスをとったものなのだろう。

苦肉の策ってやつか。

まず確認できたことは、利用者の希望や不満が、複数有るということだ(しかもそのいくつかは対立的である)

そうすると
指定管理者制度のもと、区の職員がほとんどいない中で、利用者の希望と区の運営方針にかなり食い違ったものになっている実体があります。……≫
というほど話が簡単でないことは、すぐに見当がつく。

対立的な利用者の希望がある以上、区の運営方針がすべての利用者の希望を完全に満たすことなどありえない。それは食い違いといった言葉で語るべきでもないし、語りえるものでもない。

そして、また、ほぼ間違いないように思われるのは、この対立的な希望という問題に関して、図書館の運営が指定管理者によって行なわれるか、区の直営によって公務員によって行われるかという差異は、関与的ではないだろうということだ。
どちらによる運営であっても、この問題がすぐに解決することはないだろうから。

そこで、図書館の自由に関する宣言に、新たな宣言をひとつ。

『すべての国民は、図書館運営に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない』


PS
この千代田区立図書館の問題は、府立国際児童文学館http://homepage3.nifty.com/jibun-ouen/)の問題とも繋がっているような気がする。
存続を願う人たちが、児童文学館の重要性、価値を語れば語るほど、ではなぜそのようにも重要な施設の費用を、府民が負担しなければならないのかという不満はむしろ膨れ上がってしまうのだ。

いささか唐突だが、地球温暖化問題とからめて、温暖化ガスの発生を抑えるという側面から、原子力発電所の有用性を語ることと、でも俺んちの隣に原発を建設しなくても、という建設予定地の住民の不満との間には、どうしても噛み合い難い溝がある。

しかも、電力需要の増大に答えるための、発電量の増強という、それ自体は避けて通りがたい国民全体の問題が、地方での原発建設という、リスクを一部の地域住民に押し付ける形で行われてきたという、リアルな現実がある。
当事者エゴという言葉があるが、それならば、非当事者エゴということもあるだろう。

私は気がひどく滅入ったときには、『赤毛のアン』を読み返してその回復をはかるという、児童文学を愛する者の一人として、児童文学館問題が良い方向に進んでくれることを願っていたのだが、府民ならざるものとして、署名活動に参加するといった、地味ではあるが実際的な行動をとることはしなかった。

PS2
しかもこの児童文学館存続問題に「運営者」問題をリンクさせようとする動きもみられた。
こうなると私は、ギブアップである。