利用者の図書館、住民の図書館、そして市民の図書館  といった話を書くつもりだった

なかば不本意に、ひとつの言葉に、つまづいてしまうということがある。
今回つまづいてしまったのが「外部」という言葉。
おおむね言葉というものはそのようなものだけれど、「外部」って、と考えはじめると、とたんに話が先に進まなくなる。

携帯電話で考えて、電波が届くところが圏内、電波が届かないところが圏外。
話が出来るところが内側で、話が出来ないところが外側。
伝わる場所が内部で、伝わらない場所が外部。

と考えて、つまづいた文章を、見つめなおす。

≪……その詳細はあまり外部の方々に伝わっていません。≫

「詳しく細かいことが、良く伝わっているところは、そもそも外部ではない」などと、つむじを曲げたくもなる。

しかし振り返って、この私がこのブログを書くことの意味のようなものを考えると、物狂おしくもなってくる。
西東京市の図書館利用者率20パーセントという数字は、五人に4人が「図書館の話」に対して、着信拒否をしているようなものだとも、考えられる。
そもそも「図書館」というタグで私のブログを訪れる人が、実に実に少数派(多かれ少なかれ、関心を共有する)であろうことは間違いない。

私が、この関心を共有しない4人に、なにごとかを、伝えようと思うなら、まず着信拒否を、強制的に解除することが必要なのだ。ある意味で現代のテロリズムは、このような論理展開によって行なわれているように思う。苦境に陥った人々が、その苦境によってあげる悲鳴を聞こうともしない人たちの顔をいやでもふりむかせるために……。
しかし私はそれを躊躇するし、好まない。
とすると、私にできることは実に限られたことになる。
より正確にいえば、出来ることは、私の狙いさえ超えて、実に簡単に出来てしまうのだが、出来ないことは、ほぼ全く困難なのだ。


さて、昨日、途中!!!まで書いた文章を下記に記す。

    …………

西東京市の図書館のデータを眺めて、それを基にした話を書こうかと思っていたけれど、(仮タイトル『図書館が年間3千円の施設だったら』)もう少し、昨日の登録者率の話を自分なりに深めてみたいと思って、違う話を書いてみることにしました。

そこで、図書館のあり方について、多くの発信をしている「東京の図書館をもっとよくする会」という団体のプログから、記事を見つけて、つないで考えることにします。

   「千代田の図書館を考える会」のメッセージ
東京の図書館をもっとよくする会(旧ページ)
http://motto-library.cocolog-nifty.com/main/2009/02/12------e31f.html

の『[学習会案内]千代田の図書館を考えるつどい(2月12日(木)開催)--新・日比谷図書館構想をめぐって 千代田の図書館の現状とこれからを 利用者の視点で考える--』(主催 千代田の図書館を考える会)
このつどいは、新・日比谷図書館構想についてと千代田区の図書館の現状についてという2つの柱で行なわれたつどいのようである。
市民図書館に関心を持つ25パーセント以下の少数派には、それなりに、ぐっとくる(ググッとくる)話題だと思う。

   予備知識。問題の場所
ここで問題になっている千代田区というのは、日本の中枢的な施設の集まる区であり、一般論化しにくいところは多々ある。
人口自体は4万4千ほどの少なさで、同じ23区といっても、例えば70万を超えてしまった練馬区鳥取県の59万を軽く超えてしまっている)の20分の1ほど。
しかし上記の記事のなかにもあるように、昼間人口は100万を超えるともいわれている。

図書館も、区内在住、在勤、在学者のみならず、住所と名前が確認できるものがあれば、誰でもその場で「貸出券」を発行してくれるという太っ腹!!!なところを見せている。
こういう癖のある図書館で利用者率(区内在住者の貸出券所持率)という数字を切り口にする事自体、いささか悩ましいのだが、そうすることで見えてくるものもあるかと思う。

[千代田区図書館のホームページを見ても、利用者率が見つけられなかったので、これは推定でしかないけれど、おおむねの標準値にしたがって、西東京市同様の利用者率だろうと推定して、話を進めたい。さしあたり25%前後ということで。(日本の市民図書館で30パーセントの利用者率を超えるところは、まれであるようだ)]

さて、その記事の中に、こんな文章がある。

≪新庁舎に千代田図書館が2007年5月にオープンして約2年。指定管理者制度のもと、区の職員がほとんどいない中で、利用者の希望と区の運営方針にかなり食い違ったものになっている実体があります。しかし、その詳細はあまり外部の方々に伝わっていません。≫

この文章は読みにくい、捉えにくい。
なぜかと考えた。で、こう考えた。

3つのセンテンスからなる、段落なのだが、2つ目のセンテンスの「、」までが、おおむね客観的な事実の記述であり、それ以下が、千代田の図書館を考える会の主観的なメッセージの記述になっているからだと。
つまり2つ目のセンテンスに淀みがある。「、」を「。」に変えて、整えてみた。

改良案1
『新庁舎に千代田図書館が2007年5月にオープンして約2年間、指定管理者制度のもと、区の職員がほとんどいないなかで、運営が続けられてきました。
そこでは、利用者の希望と区の運営方針が、かなり食い違ったものになっているように「我々」には思われます。そのうえ、その詳細はあまり外部の方々に伝わっていません。』

改良案2
『新庁舎に千代田図書館が2007年5月にオープンして約2年間、指定管理者制度のもと、区の職員がほとんどいないなかで、運営が続けられてきました。
そこでは、利用者である「我々」の希望と区の運営方針が、かなり食い違ったものになっている実体があります。であるのに、その詳細はあまり外部の方々に伝わっていません。』

「外部の方々」 どうでしょう? 伝わりやすくなりましたか?

[私も読みにくい文章を書くから、文章の捉えがたさをとやかくいいいたいわけではない。おおむね考えながら、ある種のパッションを持って、文章を書いて、それをすっきりした文章にするのは難しいのだ。
記事を書いた人は、たぶん『鬱勃としたパトス』(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』より)を抱いているのではないかと推測する。その内容は私と相当違うものだとしても。

今、図書館に関心を寄せる少数派は、それぞれに『鬱勃としたパトス』を持っているように思う。それは図書館のピンチに対してのものだが、図書館に関心を寄せる者が、内容の異なる複数の『鬱勃としたパトス』を持つということ自体も、また図書館のピンチである。]
(どうでも良いことだが井上ひさしの『青葉繁れる』や、石坂洋次郎の『青い山脈』そして、『どくとるマンボウ青春記』などの作品は、日本のYA(ヤングアダルト)の古典といっていい名作だと思うけれど、どのくらいの図書館のYAの棚に並んでいるのだろう。終戦直後を舞台にした青春ものには、楽天的な明るさと根のしっかりした生真面目さが同居しているようで、私は好きだ)

   …………

このあと、「脱線」を交えながら、えんえん続けるつもりだったのだが、ここまでで、少なからず市民図書館に関心を持つ人には、私の「思想信条嗜好性志向性」は、十分に伝わってしまっているのではないかと考えた。ここまでで、私にある種の烙印を捺す人さえいるだろう……

そして、ここから先、書こうと思っていた、細部を検討し、興味がなかった人に、いくらか関心を持ってもらうべく、分りやすく、問題を整理するといった文章は、その人たちには、新鮮味のない退屈なものになるだろうとも思った。別段独創的な切り口があるわけでもないのだ。

そして興味がない人は、そもそもこのブログには来ないのだ。トホホ。

などと考えて、「外部」という言葉を考え始めてしまった。
せめて利用者率が5割を超えていれば……

さしあたり、図書館にあまり関心を持たない人にむけて、現在の市民図書館の現状について、そのイメージを素描すれば、

①良いものがだんだん悪くなって行きつつあり、それを何とかしなきゃいけないというよりも、下り坂をブレーキの壊れた車が疾走している。その先には下り坂が二股に分かれている。そしてどちらにハンドルをきってもろくなことにならない……

②あるいは、ソ連コミュニズムに早々と絶望し、ドイツのファシズムを最初から嫌悪したフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユが、祖国フランスをドイツに踏みにじられ、イギリスで短い生涯を終えた……

といった、どちらにしろ、辛いイメージを思い浮かべていただければよいと思う。

PS
気力が充実したらもう少しちゃんとした記事を書こっと。