感情労働

ウィキによれば、

感情労働(かんじょうろうどう、Emotional Labour)とは、身体や知識だけでなく感情の移入を必要とする労働作業を意味する。
感情労働にもっとも相当する職種としては、看護師、介護士が挙げられる。コールセンターの電話オペレーター、航空機の客室乗務員や風俗嬢、ホスト、ホステスなどのサービス業も感情労働に当てはまる。

市民図書館が自治体から、民間に、運営・管理が移行することで、新たに発生した労働が、これかな、とも思う。

行きつけの図書館の運営(特に利用者まわり)が、自治体系か民間系かを、簡単に見分けるこつは、さしあたりカウンタースタッフの愛想の違いである。

「愛想ばっかりふりまいて」が、民間スタッフへの批判としてあり、それは的を射たものかもしれないが、ではなぜ、もともとサービス業性の強い施設であるにもかかわらず、自治体職員は感情労働という労働をしてこなかったのか、という批判にも、一理はあると思う。

≪本来、労働の定義においては行動主義的、生理学的な固体主義的把握によるアプローチが一般であった。もちろんマルクス主義においては労働の価値に力点が置かれ、この領域は等閑視されていた。

これに対して「感情労働」は、労働の本質を社会史的、人類学的視座から文化的相対主義の視点を援用することにより、社会的・社会心理学的、経済学的文脈において解きほぐそうとする試みである。≫
  (ウィキより)

はるかマルクスの流れを汲む、左翼系労働組合員がその一角を占めてきた公共図書館スタッフが、「感情労働」と折り合いが悪い理由の根は案外深いものかもしれない。
(かつて、「中国の店員」と「ソ連製のブラジャー」は愛想の悪いものの比喩として使われた。もちろん、今は違うみたいだけれど)

ネットから予約した本を借り出しに来るだけの利用者には、愛想の良さは図書館の快適な利用に欠かせないものになるかもしれないし、相談重視の利用者には、愛想はどうでも良いといったことになるかもしれない。
これはもう、利用者それぞれだ。

愛想も良くて、腕も良くが一番なのは当然だけれど、走攻守3拍子揃ったプレイヤーは、超専門職集団の野球選手の中にも、そうそういないのが現実だ。

PS
今は知らないけれど、昔はマクドナルドのメニューには「すまいる=0円」みたいな表示があったと思う。
これは感情労働には対価を払わないという、経営者からスタッフへの宣言だったのだろうか。
名ばかり管理職が話題になったりもしたが、ただ働きスマイルはどうなったのだろう。