市民について 序 (ハテナ市民と市民の図書館)

市民の図書館でも市民図書館でもいいが、市民という言葉を図書館につないで使う限りは、「市民」という言葉を、自分なりにまとめて考えておきたいと思っている。

そもそも、奴隷制度が健在だった場所や時代では、市民とは奴隷ではないものとして、理解できるので、分りやすい。

ここに来て、エルサレム賞の受賞がらみの話題で貸出が増えている村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では、『そういうものだ』調で、そのような社会(ギリシャ)が語られる。
だいたいこんな感じだったと思う。
奴隷に雑事をさせて、市民は、数学に頭をひねり、音楽を奏で、詩をつくる。そういうものだ。
(たぶん雑事とは配架(注1)のことだろう)

ザトクリフのローマ物でも、市民の対概念は奴隷のようだ。

しかし近現代にはいって、奴隷制度が社会的な否認にあってから、むしろ「市民」という言葉は、明確な輪郭を失ったように思う。

カート・ヴォネガットに辛らつな描写が見られる。
作品の世界では(発表された当時から見た近未来)、仕事をなくした人々が、福祉政策と労働政策の中間的妥協的産物として、道路掃除だったかの仕事をさせられている。
中近東の国から来た視察団の長が、彼らを見て『奴隷』と呼ぶたびに(『僕のことだ』)、案内役のアメリカ人があわてて『市民』と訂正する。

現代の日本の「不正規雇用」や「派遣切り」といった問題と繋いで考えずにはいられない。優れた作品がもつ「予見性」というものだろうか。

と、ここから本題にはいるつもりだったのだがいささか行き詰っているうちに、「ハテナ」もまた、「はてな市民」という市民制度を採用していることに思い当たった。

その内容によらず、利用回数によって、ランクが上がっていくシステムのようだ。
正規雇用者の賃金体系と同じじゃん。フン。

いっそ、有料利用者を市民、無料利用者を2級市民とかにして、市民には凝ったデザインを提供し、2級市民には安っぽいデザインをあてがう!!などして、リアルに現代社会を体感させてほしい気もする。

最近、最寄の駅に、いわゆる駅近の高層マンションが完成し、夜になると煌々とあかりがともるようになった。値引きめあてに閉店間際の西友に買い物に行く途中、そのあかりを見ると、宝くじが当たりでもしない限り、一生あそこには住めないなと思う。(そのうえ、もったいないので、このところ宝くじは買っていない)
なんだか、銀河鉄道999のパスを手に入れる前の、哲郎になったみたいな気分がする。

市民については継続して考えます。

PS
参考資料、読んでぐっと来ました。
http://www.futoko.org/special/special-02/page0505-113.html
『教育の「民営化」とは何か 講義妙録・佐々木賢さん』

(注1)
一部で配架(返却された本を棚に戻す作業。排架とも書く)みたいな単純作業くらいは、可能な限り安いバイトでまかなえばよいとする意見があるが、ある精力的な図書館長から聞いた話では、本を一冊棚に戻すたびに、タイトルと著者名を頭に刻み込んでいけば、図書館まるごととはいかないまでも、その人が中心的に受け持つ、1類2類といった範囲で、書架の本を手触りを含めたリアルな本として、網羅的にインプットすることができるという。
そしてそのくらいは、ライブラリアンとして、まずは基本なのだそうである。
そして天下のイチローだって素振り抜きで、バッターボックスに立ち続けることはできないはずだ。