購入と除籍。

ブックマークしてくださったみなさん、どうもありがとう。

私のゆるーーいお友達のtoled氏はテラ豚丼ネタ(http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/1196589952)で221人のユーザーにマークされましたが、いつか図書館ネタが、豚丼ネタを超える日を願ってやみません。

それはそれ、私がこの事件に関心を持ったのが、もっぱら私憤に基づくことは、すでに明瞭ですが、できればそこから少し先を目指すべく、図書館の自由をめぐって、いくらか時間をかけて、この件に関して最後の、もうひとつの文章を書いてみようと思っています。
乞う御期待。

それはまたそれ。

rieronlibraryさんのブックマークコメント
≪ あら、載ってなかった?ごめんなさい。さて、公共図書館を委託まかせにでいないという理由の一つが、この購入と除籍の専門性なのだと思う。なるほど別の意味で委託には任せられないよねぇ? 2009/07/18 ≫

もう、載ってなかったよ、プンプン!
なのですが、久しぶりに図書館ネタ?で、いっぱいの本に触れて、日々の雑事(注①)に追われる委託系図書館員のはしくれとして、身の引き締まる思いをさせていただいたこと、感謝いたします。

ところで、
公共図書館を委託まかせにでいない(これは「できない」でしょうね)という理由の一つが、この購入と除籍の専門性なのだと思う。なるほど別の意味で委託には任せられないよねぇ? ≫についてはいくつか疑問があります。

選書(購入)に関して、ごく早い時期から、その作業が外部の民間業者の手によってになわれてきたという指摘が『公共図書館の論点整理』のなかにあったように思います。(手元に現物がないので確認できませんが。トホホ)

結局、当時の専門的な能力(つまり専門性)が不足している職員によって運営せざるをえない公共図書館においては、外部にその仕事の一部を委託せざるをえず、いわば急場をしのぐための方法が恒常化(最適化)し、それは今でも続いている。

実際、大学を出て、公務員になった若者が、本人の願いかなわず!!図書館に配属されても、すぐに仕事をこなしうるほどには、選書も除籍も、オートマティックにシステム化されているようです。そうでなければ仕事にならないし。だいたい3年で、また別の部署に移動するわけだし。(そして多くの若き公務員が二度と図書館に戻らずにすむことを心の底から願っている)

≪この購入と除籍の専門性なのだと思う。≫
おおむね「石の上にも3年」が、専門性を獲得するために必要な年月の下限であると考えるなら、公務員司書の専門性をうんぬんしてもあまり意味があるとは思えません。(もちろんツバメのように繰り返し図書館に舞い戻ってきて専門性を高めている公務員司書の方もいるわけですが。
『約束の橋』佐野元春
http://www.youtube.com/watch?v=vUX99IwcTl4♪いつか燕のように 風に翼を広げて♪)

たとえば、見計らいで、業者によって持ち込まれた本の6割を司書が購入するとき、選書の主体は業者の側にあると見るのが、まずは妥当な判断ではないでしょうか。
(ちなみにこの数字を逆に返本率ととらえると、書店における4割の返品率とほぼ同様であるというのが興味深いところです。書籍の再販制度が、専門性を持たない書店員が、書籍を発注しても、そのことのリスク(売れ残りによる書店の損失)を最低限に抑えるシステムとして有効に機能したことは、ほぼ間違いないところとして認知されているのではないでしょうか)

さてさて。
これは憶測ですが、
たぶん90%の資料の購入に、多くの司書はそもそもあまりタッチができないのではないかという気がします。たとえば、宮部みゆきの新刊は、その人気から、司書の判断を超えて、購入せざるをえないわけだし。
ただ残りの10%に関して、自由裁量?権が行使されるというあたりではないでしょうか。
総額約300億円(JLAの資料から)の資料費の5%でも15億。案外この部分にあるしゅの選書権の独断的行使が関係するのではないでしょうか。(ビル・ゲイツの総資産に比べれば15億など微々たるものですが、日本図書館協会の年間予算が2億5千万ほどのようですから、日本図書館協会の予算から見ればこれはちょっとした金額です。)

道路建設費の10%は利権費?として誰かの懐に納まるシステム?になっているという話がありますが、50%を懐に入れれば、不正が発覚することは目に見えているし、たぶん利権の上限はそのあたりにあるということでしょう。

図書館資料費が頭打ち、あるいは減少化する傾向に、異議を申し立てることも大切でしょうが、足元を見直すことも必要ではないかと思います。

wackunnpapa さん。
≪あの当時,この件は保守反動による陰謀のように捉えていた関係者もいて≫
案外今でもいるのではないかというのが悩みの種なんですね。A氏の復権?ぶりをみるとそんな気がしてなりません。
例えば日本図書館協会のホームページの『図書館関連団体』でリンクをはられている、
JBBY日本国際児童図書評議会)という団体による、編集者講座の告知。
http://jitoken.exblog.jp/8144923/

わたしはしつこくA氏を非難し続けようとは思いません。経験を生かした仕事をするのもかまわないと思います。
ただA氏が今後も図書館の周辺で活動しようとするなら、やはりしなければならないことがあると思っています。

柄谷行人『倫理21』からの股引用(P77)で恐縮ですが、漱石の言葉。
『元来私はかういう考へを有っています。泥棒をして懲役にされた者、人殺しをして絞首台に臨んだものー法律上罪になると云ふのは徳義上の問題であるから公に処罰せられるるのではあるけれども、其の罪を犯した人間が、自分の心の経路を有りの儘に現はすことが出来たならば、さうして、其儘を人にインプツスする事が出来たならば、総ての罪悪と云うものはないと思う。……法律には触れます懲役にはなります。けれども其人の罪は其人の描いた物で十分に清められるものだと思ふ』
私はA氏に事件を有りのままに書いて欲しい、広く一般に説明をして欲しいと思っています。
そうすることが、市民の知る自由を保障する場所としての図書館で、図書館員だった者の矜持ではないでしょうか。
それはスキルという形(注②)で語られがちな図書館員としての専門性の一部をなすものだとも思います。

注①
図書館で迷子になった子どもを捜して、図書館を出て、町中を走り回る。三日ほど筋肉痛で階段がまともに降りられなくなった。

あるいは、雨に濡れた本をカウンターにそっと置いて、立ち去っていく利用者を追いかける。去る者は追わず、来る者は拒まず、は大人(タイジン)向きの生きかたですが、どうも図書館員にできることは、来る者は拒まずというラインまででしょうか。
そしてそれは死守しなければと思いもしますが。

注②
スキルという形で身につけうる専門性は、技術(電子テクノロジー情報工学?)の進歩で、その専門性を奪われる可能性をひめているように思う。

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