ウーンとため息をつく。 デモよ 何度でも何度でもおいらに言ってくれよ 世界が破滅するなんて嘘だろ

http://d.hatena.ne.jp/toled/20090929
どうも自分の言葉で、この飛び込んできたニュースに対する気持ちや考えを書くことができそうにない。
そこで、いくつか引用することで、それにかえようと思う。

最近読んでいるアニカ・トールの『ステフィとネッリの物語』(4部作)で、巻頭に作者が日本の読者へあてたメッセージから。

『日本の読者の皆さまへ
この本が日本で出版されることを
とてもうれしく思います。
戦争と人種差別は人間を、
とりわけ幼い子こどもたちを襲い、傷つける、
邪悪でおそろしいものです。
人には皆、平和に生きる権利があり、
そして人はだれも、
人間として同じ価値を持っている、
と私は信じています。』
     アニカ・トール

この作品には、(私はまだ3巻目の途中を読んでいるところだけれど)、排外主義、人種差別的な思想を邪悪なものとする信念が基本としてあるように思う。

海の深み―ステフィとネッリの物語〈3〉

海の深み―ステフィとネッリの物語〈3〉


もうひとつ、たぶんツネノさんが抱え込んでいると思われる、ある困難さに関して、柄谷行人の『終焉をめぐって』から。

『鷹四の政治の根底には、この暴力がある。ソレルは『暴力論』において、「権威を目指して進み、そして機械人形的服従を招来しようとする権力(フォルス)」と「この権力を破壊しようとする暴力(ヴィオランス」)」を区別している。後者の暴力は生の肯定である。この二つは、しかし簡単に分離するわけにはいかない。
ヴィオランスをもたぬ左翼はフォルスに陥るし、ヴィオランスを肯定する左翼もフォルスに陥る。事実、革命的サンディカリズムを唱えたこのソレルの理論は、ムッソリーニに継承されたのである。
だが無難な道はない。』
  「大江勘三郎アレゴリー」62ページより(この文章をおおむね大江健三郎の『万延元年のフットボール』を中心に考察されたものです))

ツネノさんがブログで
『……問題はここに物理的暴力がうつっていることではありません。フランス国王の支配を覆したのも、大日本帝国を倒したのも、暴力です。暴力はそれ自体が直ちに悪いわけではありません』
と書き、、いわばこの映像を見たときに自然に生じる暴力それ自体への嫌悪(とにかく暴力は良くない式の感想・意見に)、あるしゅの異議申し立てをする背景にはツネノさんのソレルへの強い関心があると思われます。
ある意味、ムッソリーニを倒したのも、また暴力ですし。柄谷行人がいうとおり、無難な道はないようです。


ちなみに在特会とはその正式名称を「在日特権を許さない市民の会」というようです。
有志による市民団体ということで、図書館資料を使って、東アジア史の勉強会をしたいから、会議室を使わせて欲しいと、市民図書館にやってくることもあるかもしれない。
そう考えると気が重い。
図書館の自由に関する宣言』は、その5として
『すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
外国人も、その権利は保障される。』
とうたっているが、それを現実的に維持していくのが大変な時代が来るのかもしれない。


wackunnpapaさんが先日の日記に≪ 僕には「委託・指定管理者系図書館員=移民」排斥というメタファーは興味ぶかいが,果たして日図協のお偉方が「在特会」など知っているかどうか,はなはだ不安.≫とブクマコメントを書いてくださったが、知っていてほしい気がした。

忌野清志郎の♪明日なき世界 (Eve of Destruction)
http://www.youtube.com/watch?v=bts6BWRSU9E&feature=related

10。3追記
♪そりゃあ デモをするだけで、平和がくるなんて 甘い夢など見ちゃいねえさ♪
           P・F・Sloan/高石友也/忌野清志朗

それにしても時代は変わる。在特会のデモがこの歌で示されるような「平和」を夢みていないことは明らかなように思う。
ただ、デモというのはもともと、左右どうであれ、少なからず安定=穏やかな日常を脅かすものとしてある。
買い物帰りの通行人の目は、おおむねどんなデモ隊にたいしても、冷ややかなものだ。

しかし、人は、明日も今日と同じような一日であれと望むのと同じくらいに、明日が今日と違っていることを望む。

今回のデモで、デモに対する規制が強化されるような動きになれば、デモ規制強化反対デモに彼は参加するだろう。

♪デモよ 何度でも何度でもおいらに言ってくれよ 世界が破滅するなんて嘘だろ(嘘)