「浅からぬ因縁」(フロム巨人の星) 市民図書館の生き残りと教会

公共図書館国会図書館に滅ぼされる日』というショッキングなタイトルの記事を読んだ。
http://sakuraya.or.tp/blog_t/index.cgi?no=559
国会図書館が蔵書すべてをデジタルアーカイブ化して……という、シュミレーションなのだけど、まあそうなると、市民図書館は素通りというか、存在価値は急速に下がるであろうことは、たしかなことと思われた。
市民図書館は、必要な経費と提供されるサービスの不釣合いが、問題になって、片方に、サービスに見合う経費削減(非常勤化、民間化)があり、もう一方に。コストに見合うサービスの提供を目指して、高機能化が模索されているといってよいと思うけれど、図書館界全体が高機能化を推し進めると、市民図書館があらためて存在価値を下げるということになると、つらい。
なんか高速道路ができて、経営不振に陥りそうな国道沿いの食堂みたいだ。

さて、
現状の市民図書館が、市民のための図書(資料・情報)の館(ヤカタ)だとすると、図書の部分がある程度、素通りされるわけで、さしあたりヤカタ的側面を重視するのも方法かなと思った。

唐突だけれど、欧米のコミュニティと日本のそれを比較したとき、「教会」の有無って案外大きいんじゃないかと思う。
教会って、もちろん信仰の場所であるけれど、それ以外にも社交の場、情報交換の場であり、教育的機能も持っている。
もともと、欧米の図書館と教会は「浅からぬ因縁」(フロム巨人の星)があるが、結果的にある程度の機能分担で、社会のニーズに応えているのではないかと思う。

欧米の小説には、歌の得意な子供が「聖歌隊」で歌うという場面が良くあるが(例サリンジャー『エズメのために……』)、図書館の会議室兼視聴覚室兼お楽しみ会室が、ママさんコーラスの練習場として使われるということは、ある。
図書館原理主義的には許しがたいことかもしれないが、欧米では教会と図書館で、分化される役割が、日本の市民図書館で、一体化しているとしても、不思議ではない。

さしあたり資料は腐るほどあるんだし、本について語り合う場所、CDについて語り合う場所、地域について語り合う場所などなど、地域のコミュケーションのひとつの核になる「館」として、価値を高めておくのも、アイデアかと思った。

自習者の話題が、少し前に微妙に盛り上がったが、原理原則から導いて、理論的に受け入れ拒否をするのではなくて、検討中の課題とかいって、様子見を決め込んで、全体として利用者が激減することがあったたなら、国民の学習権を保障するとか、都合の良い理論構築をして、むしろ積極的に、市民図書館の価値を高める一手として使わせていただくというのもありなんじゃないか。
実に卑怯だが。
『……愛と惨めさをこめて』

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

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「堕ちて生きよ」
堕落論 (集英社文庫)

堕落論 (集英社文庫)

どうでも良いけど、すごい表紙になっていたのね。堕落を実践しているというか。