『落ちる、落ちる、叫びながら・・・・』

sakuraya_tohruさんから頂いたブクマコメントを読んで、考えた。
≪場としての公共図書館は90年代から具現化したが華美なハコモノを整備したい政治家の手段でしかなかったので、お金が無くなった現在に至り失敗と判断される/今後は、住民の自主的なコミュニティ拠点となれるか、かな… ≫

失敗と判断されるか……とほほ。

そこで、
赤毛のアン』の話で、なんなんだけど。

赤毛のアン (集英社文庫)

赤毛のアン (集英社文庫)

赤毛のアンを読む限り、建物としての「教会」って、コミュニティ・住民のものとして、最初からあるようだ。
前任の牧師の退任を受けて、新しい牧師を選ぶ話が、ひとつのエピソードとしてある。


牧師志願者を、集めて、「説教」などをさせて、リンドおばさんをはじめとする、コミュニティのうるさ型が、あれこれ批評しあって、新任の牧師を選ぶ。
『教会の長老たちの審査に、及第する牧師もいれば、落第する牧師もいた。』(262ページ(ハードカバー版で)
辛口で現実的なリンドおばさんは
『あの牧師さんにしても完璧ではないけど、年棒750ドルじゃ、完璧な牧師さんは望めないと言っ』たりする。(しかしこういう経済感覚って大事かも)
そのように選ばれたアラン牧師と、特にその夫人は、『赤毛のアン』の重要な登場人物になる。


いっそ、館長志願者や館員志願者を集めて住民が、などと、夢みたいなことを考える。
夢みたいではあるが、指定管理者制度とからめても?、案外現実的でもある。

図書館員よりも通館歴の長い利用者というのは結構いるものだし、そのような人の中には市民図書館に対してイメージや理想を持ち、意見をする市民も結構いるものだ。
市民図書館側は、そのような市民をむしろ積極的!!に煙たがってきたのではないだろうか。
図書館の本質を理解しないといって冷笑したり、身内!の市民の声を、市民全体の声とすりかえたり。

現在の混乱のなか、正規の市民図書館員のなかには、そんな?図書館ならなくなってしまえばいいと、かわいさ余って憎さ1万倍式の呪詛を投げかける人もいるが、私はただの利用者としても、市民図書館依存度が高いので、なくなってもらったら困るのさ。
そもそも市民図書館が、学生でも、教師でも、研究者でもない私の、唯一の図書館なのさ。


図書館には会議室兼視聴覚室兼お楽しみ会室がつきものなんだし、そこで、地域の市民が集まって、その図書館の今後を、ひとつひとつ決めていったらどうかしら。
そもそも自治ってそういうものじゃないかしら。
まあ、市民図書館の担い手・運営者が公務員であっても別にかまわないけれど。
私はワーカーズコレクティブとか、そんなことも考えている。市民図書館って、あらかじめ市民が出資者なんだし。委託・指定管理の受け皿としても、筋は良いように思う。

ネットベーシックの情報機関なら、日本にひとつあれば済みそうだ。情報機関としてのコストパフォーマンスを考えたら、それが1番かもしれないし、それはそれで粛々と進めていけばいい。きっと便利は便利だ。
私にしたって、夏目漱石宮沢賢治の作品を腰をすえて読もうと思えば紙の本を手に取るけれど、あの場面のあの言い回しといった時には、青空文庫をはじめとしたネット・電子メディアを使うことが多い。
ただ図書館で書架をぼんやりとめぐって、目に付いた本を、図書館で読むことも、結構好きなのだ。
市民図書館フォーエバー。


『落ちる、落ちる、叫びながら・・・・』は、大江健三郎が書いた、三島由紀夫問題?を背景に、親子のプールでの日々が重ねあわされる短編。
それはこんなふうに終わる。
ー僕は沈みました。これからは泳ぐことにしよう。僕はもう泳ごうと思います!ー

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

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