『コロボックル物語』を読んで その2

第5巻『小さな国のつづきの話』は

ー名まえを杉岡正子といって、その年の春高校をでるとすぐ、町の図書館につとめはじめたおねえさんがいるー

というぐあいに始まる。
もちろんコロボックルの話がメインにはあるのだが、最初は事務員として図書館で働き始める正子が、じょじょに司書への道を進んでいくさまが、サイドストーリーになっている。

図書館がらみの興味深い描写などもいくつかあったのだけれど、わたしが関心を持ったのが次の部分。

ムックリくんは本ならなんでもバリバリ読みとばすような、読書力の高い子だが、しかし、前にもいったように、この子は『専門家』の一人で、女の子に多い『読書家』ではない。だから図書館にも、なにか目あてがなければでかけていかないー
            141ページ

理系の学校に学んだ、児童文学者である、佐藤さんには、専門家と読書家が同居していたのかなとも思った。
それにしても、「専門家」と「読書家」という2つで、市民図書館の利用者像を把握するのは、現実的に有効だと思う。


katz3さんという方の記事。
≪大学はある程度指向性がある人の集まりなので、多少御しやすく、気楽さはあります。大学図書館業界にある、一種の「腰の軽さ」は、そういう側面に支えられているのかもですね。≫
http://d.hatena.ne.jp/katz3/20090913
大学図書館というところは基本的に「専門家」とそれを目指す学生にターゲットを絞っていくことで、先鋭化できる。利用者の「目あて」がはっきりしている。katz3さんは、大学図書館の軽快さを腰の軽さと表現したんだと思った。

市民図書館がいささかかったるいのは(OSだけ入れ替えたパソコンみたいに)、専門家と読書家、両方の利用者にサービスを提供し続けていく必要があるからだと思う。だいたい読書家というのは「目あて」がはっきりしていない。目あてがはっきりしないまま、図書館を訪れることで、新しい作家・作品と出会うのだといってもいい。
あるいは、目あてが合って図書館に行くのではなく、図書館に行って目あてを見つけるのだ。


ウィトゲンシュタインは、哲学の問題が解決しても人生の問題はまるごと残る、みたいなことを考えていた時期があるようだが、市民図書館の読書家対応部分は、まるごと残る問題に直接かかわってくる。

ps
発表されてけっこう時間がたった本を読むと、どうしても全体がずっと昔の話という気がしてしまうものだが、この作品の時代設定から考えると、正子は、現役ばりばりで、今もどこかの図書館で働いていてもおかしくない。もうおねえさんではないだろうけれど。そう考えると不思議な感じがした。