フェレットが頭の中でぐるぐる

    はじめに
ブックマークしてくださったみなさん、わざわざリンク先のサイトを訪問してくださったみなさんに感謝します。
取り急ぎ、リアクションとして考えたことをアップしておきます

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さて、私は反省をしています。私のブログはそのブログ名によって、もともと訪れる人が限定されていて、そのため、現在の公共図書館に関する基本的な情報を共有しない人に対して、説明不足の部分が多々あったことについてです。

ブクマを見て思ったのですが、ともんけんウィークリー2010年02月10日の記事で紹介されている『みんなの図書館 2010年3月号』を知っている人と知らない人で、3月1日の記事の印象が大きく変わるようです。この雑誌はどこの書店にも、どこの図書館にも置いてあるというわけでもはないので、読んでみてくださいともいいがたいわけですが。

たとえは唐突ですが、子供グループがお菓子を買っている。A少年がみんなのぶんもまとめて払っている。この瞬間だけに居合わせた場合、これはそういうこともあるかなと思うのが普通かもしれません。
私たち大人でも飲みにいって、懐具合が暖かい1人が「今日はおれが持つから」といったことは時折あるでしょう。ただこの場合、結局、持ちまわりで、長いスパンでみれば、案外公平な負担ということになるようです。
しかしA少年が長期的かつ常に、すべての払いを背負わされている場合、そこに問題が潜んでいる可能性を私たちは感じるでしょう。
よく似た印象を私はブックマークコメントでのコメントが二分されていることに対して感じました。
全体として、これは明らかに私の「報知力」のなさに起因するものと思います。

そこでいくらか基本的な情報・説明を後半で書いてみたいと思います。

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md2takさんの《だいたい差別してるんなら千作君を非正規に例えるはずがない。》
sigikoさんの《非正規職員をフェレットや毛玉に例えている訳ではなく、「ストレスや不満を溜め込んだ自分」を「毛玉を溜め込んだフェレット」に例えているだけでは 》

このラインは私も繰り返し検討しました。
書き手がフェレットの千作君をかわいくてかわいくて仕方がないと感じていることは文章からにじみ出ています。そこから《差別してるんなら千作君を非正規に例えるはずがない》という考えは、当然視野に入ってくるものだとおもいます。

フェレットと毛玉、そもそも、この2つの関係はとても複雑です。あいだに「フェレットの毛」をはさんで、フェレットフェレットの毛とフェレットの毛玉の三つの関係を考え始めると、とても悩ましくなります。
これは人間が、「私の髪(私はセルフカットなので切った私の髪を毛玉!にしてゴミ袋におしこむわけですが)」、「私の爪」と考え始めて、じょじょに核心部分?に近づいて「私の私」などにたどり着いて、何を考えてるのかわからなくなることに似ています。

私は書き手の意思を確定しようとすることに強い困難を感じましたし、それは今も続いています。『悪い感情を持ちえません』と書きましたが、それは今も変わりません。。
T-3donさんのブクマコメント《おそらく、毛玉の比喩は単に自身のストレスを喩えた物で正直な感想の吐露でしかない、と考えているだろう》と同様の印象も持ちました。

sigikoさんの《非正規職員をフェレットや毛玉に例えている訳ではなく、「ストレスや不満を溜め込んだ自分」を「毛玉を溜め込んだフェレット」に例えているだけでは 》という分析には今でも一理を感じています。「硬い殻を持った弱い卵の一つではないかと思います。」と書きましたが、これは書き手=フェレットのライン、自分を人間と比べてか弱くしかも毛玉を溜め込んでしまったフェレットにたとえているというsigikoさんの分析の筋と同様の考え方からのものだとおもいます。
また非正規を大好きなフェレットとたとたうえで、非正規への好意の表現と考えることも可能性としてはありうるように思います。


しかし、この文章は、より深い寓意もこもる比喩的な文章であるという直感も、強くありました。「おれたちは毛玉か」という思いを一読して持ったからです。私は全体として、よい印象を持ちませんでした。
そこで私はメタファーについて考え、記憶に残っていた村上さんのスピーチをあらためて読み直すことになったのです。
村上さんはスピーチで比喩が多様な意味づけを持ちうると語っています。

私の筋道、別様の解釈はこのようなものでした。
職場A この場合書き手に毛玉は発生しない  正規職員のみ         。
職場B この場合に毛玉が発生する      正規職員+非正規職員(これは明示されていない)+毛玉(そして毛玉の材料の供給源はフェレットです。) 

職場Bから職場Aを除いたとき、そこに残るのは
非正規・毛玉・フェレットです。
この3つに親密な関係を見るのも、比喩の解釈上、正当で、アプローチとして一理あるものと考えました。

「なるほど。」
と安直につないでいますが、おもえば私の文章にも、前半と後半で、溝があります。
村上さんのスピーチを読み返して、後半部分のめどが立ったという感じでした。


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それにしても比喩のつらなりが人によってはっきり別れるということに、私は関心を持ちました。そこで、あらためて考えたことを書いておきます。

bsumoruさんのブクマコメント、《嫌なものを嫌と言わせないようにするのは間違ってる 》がヒントになりました。
ふたたび、書き手の記事を読み返して、書き手が嫌なものを嫌と直接にいっていないことに気づいたからです。そもそも書き手は「非正規」という言葉も使っていませんし。
もし書き手が《嫌なものを嫌と》はっきり書けるのであれば、前半のフェレットの部分はいささか冗長です。また正規職員だけの職場の話にたいして、そうでない職場の状況を説明していません。
一般に寓意を用いた表現は嫌なものを嫌と明示的に書きえないときに使われることがおおいものでしょう。

そこで書き手が嫌なものを嫌といえない理由を、基本的な事柄に対する説明を加えながら、考えたいとおもいます。

そもそも現在の公共図書館は、戦争の時代の日本という国家のあり方を徹底的に反省し、そこから少しでも遠ざかろうとする、おおむね進歩的とよばれる広がりの大きな運動とともに歩んできたといってよいと思います。おおむね護憲派であり、9条を信奉し、平和運動と労働運動に積極的にかかわり、人権について考え、市民が好きで、差別を嫌う。(注①)
特に70年代からの「市民の図書館」運動は、草の根的な市民運動とともに、民主的な機関としての公共図書館を日本中に根付かせようとする運動で、実際に力を発揮し、現在も力を持ち続けているように思います。

私は図書館問題研究会もそのような団体であると認識しています。
図書館問題研究会のホームページにアクセスして(http://www.jca.apc.org/tomonken/)そのアドレスから「tomonken/」の部分をカットすれば、図書館問題研究会が使用していると思われるネットサービスを確認できますが、そこから図書館問題研究会が、愛とか平和とか自由とか環境とか平等とかを重んじるムーブメントと親和性の強い団体であることがうかがえます。

私は70年代を義務教育期間にあてましたから、このタイプの運動にシンパシーを感じる人間です。9条の会の呼びかけ人のひとりである大江さんの新作をせっせと読む人間でもあります。
ともんけんウィークリーの記事には、ほぼ批判的なブクマしかしませんし、ときには批判的な記事も書きますが、いっぽう、市民系の図書館団体には、できるなら、清く正しく美しく、市民の星を目指して、一点の曇りもなく、王道を歩いていってほしいという気持ちがあるのです。

これは私のジレンマですが、私は書き手にも似かよったジレンマを感じます。
書き手のなかで、非正規職員への好悪が混在しているように思います。それは市民への好悪ともつながるものではないかと思います。

公共図書館界は、激動の時期を迎えています。
これは基本的に日本という国が貧乏になったという、みもふたもない問題と直結しています。右肩上がりの成長という幻想が崩れたとき、借金の問題が現実的な問題として現れたものです。

経費削減の波を公共図書館はまともに受けてきました。現状のサービスを維持しながら、いかに費用を抑えるかがひとつの課題となり、非正規職員を増やすことで対応しようとしてきたといってよいと思います。しかも近年、公共図書館の民間運営(委託・指定管理など。注②)が進んでいます。そのように複雑化した職場では正規・非正規・民間問わずだれもがストレスを抱えています。(書き手のストレスも含めて)

さて、公務員は、そのサービス(公共図書館界では「奉仕!!」という言葉を使うこともあります)の対象としての市民・国民に、プラスの、ポジティブな感情を持つことが要請されます。
とくにもともと市民派公共図書館員は市民との連帯・協調を重視しますから、なおさらその要請は強まるでしょう。

たとえば委託が導入された図書館について考えてみましょう。この場合、それまで働いて直雇用の同僚が別の部署へうつり、いわば彼らを追い出すかたちで委託スタッフが登場するわけです。しかも委託導入後も図書館運営に別段の支障も問題もなければ、その運営形態は固定するか、拡大する(委託に任される仕事が増えていく・あるいは指定管理へと進む)ことになります。
指定管理となれば、正規公務員図書館員は、愛情と誇りを持って続けてきたその公共図書館から、別の部署へとうつり、ふたたび図書館へもどってこられる可能性は極端に低いものになります。その意味で委託スタッフは、みずからを追い立てようとする敵、ネガティブな存在ということになります。、

一方ある意味で委託スタッフは、図書館にスタッフとして現れる以前は、バリバリの民間人、ただただ一市民の集まりです。市民派の図書館員であればあるほど、連帯し協同しなければならない存在という側面を強く持っています。

この状況は、図書館問題研究会の会員であろうと思われる書き手をアンビヴァレンスな状況に追い込んだのではなかったかと思います。同一対象に対する、ポジティブとネガティブな感情の同居です。
この場合まじめな人であればあるほど、ネガティブな感情が自覚的に意識されることにブレーキがかかるでしょう。精神分析の用語でいえば抑圧とよばれる現象です。注③

書き手の記事を振り返りますと、正規だけの職場については、具体的な描写があるのに、図書館に戻ってからの部分に具体的な描写はありません。私もそうしましたが文脈から想像するしかありません。
書き手にも書けない部分(嫌なものを嫌といえない部分)があるのではないでしょうか。
書き手がフェレットの挿話を必要とした理由を私はそこにみます。

そもそもフェレット自体を《にょろんと胴が長く人見知りしない性格で、若干体臭が臭くもありますが大変元気でかわいらしい生き物です。》と描写します。プラスの側面(大変元気でかわいらしい)とマイナスの側面(若干体臭が臭くもあります)を同居させています。

書き手は、正規職員以外の図書館の働き手へのポジティブとネガティブのふたつの印象を、そのまま自己の内面のふたつの感情として、二つの側面ごとフェレットへとつないでいるように思います。
そこではポジティブな比喩のラインとして、自分=フェレットと、ネガティブなラインとしての、非正規=フェレットが、二つの側面として、同時につながることになるのではないでしょうか。

そうであれば、自分をフェレットにたとえることと、非正規をフェレットとたとえることは、同居可能なことだといえるでしょう。前者を持ち出すことで、後者の連想系を否定はできないということになります。
これは空から舞い降りてくる1枚の紙幣が見る人の立ち位置によっては表が見えたり裏が見えたりすることに似ています。ブックマークのコメントにみられるように、記事を読んだ印象が人によってことなるのは、その立ち位置に起因するのではないかと今私は考えます

それはそれとして、私は書き手の抱えたストレスの大きさをあらためて、深刻なものではないかと思うようにもなりました。

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マイノリティーという言葉も少し考えました
公務員というのも、日本の全体の人口から考えれば数字的には少数派ですし。
卵と壁、人は自分を考えるとき、自分で考えるとき、個人として考えるとき、常に少数派です。自分と完全に一致する考えを持つ他者はいません。集団もありません。それは困難な壁と直面することですが、そのとき、人は取替えのきかないかけがえのない個として存在するのであり、そこから遠ざかり、多数派のなかでしか、落ち着いた居所を見つけがたい世界は全体として望ましいものではないでしょう。

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T-3donさんの《往々にして差別者は無自覚。》について。 柄谷行人の引用で。

『たとえば、アメリカの黒人作家ジェームズ・ボールドウィンが若いころ、『オセロ』で黒人が嘲笑されているのが嫌で、シェークスピアを読むことができなかったと書いています。彼はやがて、それを「括弧に入れ」て、シェークスピアを愛読するようになったというのです。しかし、白人は『オセロ』を観ても何とも思わないでしょう。日本人も何とも思わない。ゲームに「オセロ」という名をつけているくらいですから。それを何とも思わないような日本人は、暗黙にレイシストなのです。これは或る意味で滑稽です。オセロはアフリカ系の黒人ではないし、広い意味で「有色人種」なのであって、日本人もその仲間に入るからです。

われわれが当たり前に思っていることでも、傷つき悩む人たちがいる。それを知る必要があります。』
  『倫理21』 180ページ 柄谷行人

同書109ページには、自覚性(知ってか知らずか)について、聖書を引用するパスカルを引用するヘーゲルを引用しています。
『ーパスカルはまた同じ箇所で十字架上のキリストの、その敵のための祈りを引用している。「父よ、彼等を許し給え。彼等はその為すところを知らざればなり。」ー若し彼等がその為したところを知らなかったという事情が、彼らの行為に、悪ではなく、したがって赦免を要しないという性質を与えたとすれば、これは無用の祈りになろうと。…ー

ヘーゲルは、「知らなかった」ことは罪であり、だからこそイエスは彼らのために神に赦しを乞うのだというわけです』

私はイエスでもクリスチャンでもないので神に赦しを乞いませんが。
私が思うのは無自覚・無知が発生させる問題の解決にむかう最初の1歩は、じつに簡単なものではないかということです。カチンときた人がカチンときたと、相手に伝えればよいのではないでしょうか。おおむね最初の一歩はいかなる場合も簡単なものですが、最初の一歩は、前進するために不可欠なことも事実でしょう。

    終わりに
さて、現状公共図書館の未来に影響力を発揮しうるとおもわれる組織・団体は限られています。私は図書館問題研究会をそのひとつだと思っています。願わくば、図書館で働くあるいは関心を持つ人のすべての声を聞き、混迷する図書館の問題を研究していってほしいと思います。


注①
図書館の自由に関する宣言
5 すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
 外国人も、その権利は保障される。

わたしは「利用」のみならず、「運営」に対しても同様であるべきと考えています。
また、図書館関係者のあいだで、図書館運営について、複数の多面的な可能性が検討されています。詳細を紹介し、可能性を吟味することは、今の私にはできませんが。

注②
この動きが「民営化」とよばれることがありますが、それについては批判的な意見もあります。
私の考えるに、たとえば国鉄がJRへと「民営化」されたとき、国鉄で働いていた人の多くは、JRにうつり、肩書きの違いはあるにせよ、おなじ仕事を続けられる場合が多かったと思われます。注④これは郵政「民営化」においても同様だろうと思います。
公共図書館の民注間導入の場合、それまでの公務員図書館員は役所内部で別の部署へうつり、肩書きを変えてそのまま図書館に残るということはおおむねないようです。(可能ではあるのですが)
また民間導入は、JRほどの独立的な運営を公共図書館にもたらすことは現状ではないものと思われます。基本的には自治体の指示に従って運営を行っていくことになると思われます。

その意味で一般に「民営化」という言葉から、受けるイメージと、図書館の民間運営のあいだには相当のずれがあり、それを「民営化」とよぶことは誤解を生じやすいのではないかというものです。
注④JRへの移行のとき、組合活動家に対して排除しようとする動きがあり、すべてがスムーズに進行したわけではないようです。

注③
自分の中にあって、かつ自分の中にはあってはならないとされるネガティブなものを他者に投影することが、差別感情の一因になるのではとという考え方があります。

PS
sakuraya_tohruさん。個人のレベルでいえば公務員が給料のぶんだけ、組織のレベルでいえば、全体の経費のぶんだけ、だれが見ても明らかな成果・結果を出していれば、そこから経費・予算を削減しようという発想自体うまれがたかったと思うので(事業仕分けもそうですが)、やはりどこか緩かったのかなという気がしています。

wackunnpapaさん、グリーンスターどうもです。いつかとびっきりのブログを見つけとき貼り付けるか、家宝として保存します。

BGM
http://www.youtube.com/watch?v=GobyrfX9SKA