Lights out tonight trouble in the heartland

これまた、いくらか昔に書いたもの。
書いている途中で、動きもあって、完全に文章は混乱し、またそれを修正する気力もなくしたので、相変わらずまとまりのないものになっている。
それはそれ、地震のあったせいで、この話題も遠景化しているように思えるので、ひっそりとアップしておこうと思う。



『ディックは、そんなことを考えているじぶんにいらいらした。問題なのは、岩がなにに見えるかではなく、その正確な位置なのだ』
     アーサー・ランサム『シロクマ号となぞの鳥』
シロクマ号となぞの鳥 (アーサー・ランサム全集 (12))

『文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ』
     村上春樹風の歌を聴け
風の歌を聴け (講談社文庫)



『人生の親戚』(大江健三郎著)は『韓国の若い詩人が「反共法違反」のかどで投獄され、さらに死刑判決を受けた』ことに対する抗議活動に、ある鬱屈を抱えながら「僕」が参加している場面から始まる。

『…テントに聞えて来る活動家の街頭演説は、――詩人が詩を書くことで、なぜ死刑にならなければならないか? と繰りかえしてもいた。それはそのとおり。そのようなことをもくろむ独裁政権に抗議するアッピールのために、僕もハンガー・ストライキに加わったのではあったけれども、若い活動家たちがあまりに確信をこめてこの文句を繰りかえすのを聞いていると、――しかし、詩人が詩を書くことよりほかのことで、死刑になるよりは筋が通っているのじゃないか? という思いも湧くことがあったのだ……』
この詩人は金芝河(キム・ジハ)氏のこと。1975年5月のハンガー・ストライキに実際に大江氏は参加した。
独裁政権』による金芝河氏の逮捕は1970年のよう。40年を経た2010年の日本の民主(党)政権下での「黒い彗星」氏の逮捕劇は驚愕に値しよう。


ブログ(http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110109/1294546371)のプロフィールを読むかぎり、「黒い彗星」氏の今回の逮捕は、ほかのなにかで逮捕されるよりも筋が通っているように思える。その逮捕が不当なものであることさえふくめて。

かつてのタコ部屋(飯場)の親方をめぐる、こんな話を読んだことがある。
飯場の親方は部下=子分が喧嘩をはじめると、喧嘩の原因にかかわらず、強いほうに加勢するのだという。弱い子分の味方をして、万が一にも負けた側になってしまうと、親方としての権威が損なわれ、仕事がやりにくくなるからというのがその理由だという。毎日決まった量の石を掘り続けることが求められる集団をまとめていかなければならない親方の知恵のありようではあると思った。ストリートワイズとでもいうのかな。

今回の警察の対応に同様の知恵を感じないでもない。
もちろん警察が、タコ部屋の親方と同様の対応をしたことに問題がないわけではないが、もともと治安維持とはその程度の行為ではなかったかという気もあらためてするのではある。
昨日と同じ現場を明日もそのまま続けることに、親方は手段を選ばず、その手段が「黒い彗星」氏の逮捕であったとすれば、「黒い彗星」が身を持って示したことは、この現場=世界がスプリングスティーンが歌うところの『バッドランド=荒地』にほかならないということではなかったろうか。


『生きていることが素晴らしいと感じることが罪ではないという考えを
 心に深く持っている者たちのために
 俺は俺の心を無視することのない 一つの顔を見つけたい
 俺は一つの場所を見つけたい
 そして俺はこれらのバッドランドに唾を吐きかけたい』
   

昔話に金色のりんごが繰り返し現れるのは、りんごが赤いということに対してわれわれが持ち続けるべき驚きを復活させるためであるとイギリスの物語作家はいった。
昔話に現れるりんごが金色であることに抱く関心を、赤いりんごに対しても抱き続けよ、ということだ。
詩人が言葉を使って、われわれにそのことをなすなら、「黒い彗星」氏は、ほかのなにかも使って、私になにがしか世界への(それは荒地への)関心を取り戻させてくれた。
私はそのことに関して、「黒い彗星」氏に感謝する。

ただ戦術的に考えると今回の行動には疑問がないでもない。同様のアクションが良い結果を生まなかったことを私も知っているから。だれもがリンチにあうことのない世界を望む。
なにか良い戦術を思いついて、でも人手が足りないという時には、私にも声をかけて欲しい。仕事が休みなら、足を運ぼう。イエスも、行って同じようにしやがれって言ってるし。


ps1
私は現在の北朝鮮の政治のあり方を良いものとは思ってはいない。また学校で行なわれる「民族教育」をどこの国で行なわれるのであれ基本的には好まない。
歴史を振り返るとき、民族が声高に叫ばれる時代が喜ばしい時代ではなかったと私は思う。しかしかつての日本がそうであったように、そのような要求の高まりが避けがたいものとして現れることに関しては致し方がないとも思う。

ps2
いわゆる朝鮮学校に対する在特会のデモに対して、そこに図書館があるからというその一点のみで、アクションを起こしうるのは、図書館関係者だけであろう。
船の博物学者であるディックが、「なぜ山に登るのか?」と問われれば、そこに貴重な植物や鳥類がいるから、と答えるであろうように。

pS3
『黒い彗星報告集会によせて』という文章を米津篤八さんという方が書いていた。http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110125/1295975896

《・昨年5月に韓国の光州【クァンジュ】で、光州民衆蜂起30周年記念のシンポジウムがあった際、在日朝鮮人の尹健次【ユン・ゴンチャ】さんがこんなことを仰っていました。「日本人は在日朝鮮人と連帯するなどという前に、自らの課題を遂行すべきだ。それは天皇制の撤廃だ。朝鮮人抑圧の元凶である天皇制を温存しておいて、在日朝鮮人と連帯することなど不可能だ」》
《・したがって、今日はダニエルさんの闘いに連帯するという立場ではなく、彼に告発されている被告人の立場から、彼が掲げたスローガンの意味を、私が個人的にどう受け止めたかをお話をしたいと思う。》という語りかたの文章。

考えたことをいくつか。

私は差別や排外主義やレイシズムに反対するけれど、この問題と天皇制をリンクさせることについては疑問がある。あるいは確信がない。
天皇制と差別や排外主義やレイシズムの関係で取りうるであろう組み合わせはおおむね次の4つ。
天皇制 無し  差別や排外主義やレイシズム 無し
天皇制 無し  差別や排外主義やレイシズム 有り
天皇制 有り  差別や排外主義やレイシズム 無し
天皇制 有り  差別や排外主義やレイシズム 有り
在日朝鮮人といわれる人へのあり方として、2と4は現実に存在している。4が日本であり、http://news.livedoor.com/article/detail/5315878/、2が韓国である。天皇制を持たない諸外国においても差別や排外主義やレイシズムが存在するのも、まあ当然の事実である。
差別や排外主義やレイシズム天皇制を結びつける主張は、諸外国において、差別や排外主義やレイシズムを行なわせるメカニズム=Xが日本においては天皇制という形をとる(多くの部分で重なる)という論理によるのではないかと想像する。それは歴史的な体験の上に立った実感として、主張されるのだろう。
しかし未来において、Xと天皇制の分離が不可能であることはほんとうに確実なものなのか。

目指す世界が差別や排外主義やレイシズムのない世界であるならば、3にほんとうに可能性はないのか、1のみが可能であるのか、は慎重であっていいと思う。
3に可能性があるとき、1を選択するのは、ただいたずらに目的の達成を困難にすることでしかない。


丸山真男がいいたいのは、非転向の共産党員は道徳的にすばらしいが、それは政治的な能力やリーダーシップの責任とは別であるということです。いうまでもなく、これは政治的位相を道徳から区別しようとしたマキャベリ政治学にもとづいています。具体的にいうと共産党の「責任」はつぎのようなことです。
 …
日本でも人民戦線を言い出した時点では、(一九)三十五年ですから、すべてがもう遅い。のみならず、共産党は、ロシアの歴史的経験をそのまま日本に適用したコミンテルンの(一九)三十二年テーゼを保持したままでした。それゆえに天皇制打倒を第一に唱えた。普通選挙による議会が始まったころに、議会主義を否定した。……しかもコミンテルンソ連に盲従した少数の非転向者が戦後に指導者として崇拝され、戦前と同じことをやろうとしたのではないか。丸山真男がいいたいのはそういうことです。》
   柄谷行人『倫理21』163p
柄谷行人はこのあとで吉本隆明について語りますが、関心のある方は本をどうぞ。
倫理21

『日本という社会的文脈の中では、徹底した右翼と徹底した左翼は同じことに帰せられる、ということが『天皇ごっこ』の一つの主題である。……『天皇ごっこ』が示しているのは、右翼と左翼が交錯するポイントに天皇崇拝がある、ということである』
   大澤真幸『虚構の時代の果て』
虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)

ということで。
『「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」
それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。』
   村上春樹『1973年のピンボール
1973年のピンボール [ 村上春樹 ]