文明開化

柄谷行人の『日本精神分析』という本を読んでいる。2002年の本だが、読み落としていた。

日本精神分析

日本精神分析

前回の記事で、唐突に「文明」などという言葉を使ったのには、この本を読んだインパクトによる。うまく消化できているとはとてもいえないけれど。

メモ代わりにいくらか関心を持ったことを引用しつつ書いておく。
キーボードでタイピングするという行為は、記憶の定着を高めるだろうから。
(『試験に受かる勉強術』参照ー注1)


   
アメリカの日本学者(思想史)、ハリー・ハルトゥニアンは明治から大正への言説の変化を、「文明から文化へ」という言葉で特徴づけたことがあります。文明がグローバルで普遍的なレベル、そして、政治経済・科学技術的なレベルにかかわるとすれば、文化とは、いわば、地域的で特殊なレベル、そして、心意的・芸術的なレベルにかかわる』
   柄谷行人 『日本精神分析』86ページ 

それはそれ、
そもそも、柄谷が「文明」として、中心的に関心を持つのは、帝国的な、文字・書き言葉(漢字・ラテン語アラビア文字)であり、関心を持つ「文化」とは、文明との接触において現れる、イエス・ノーをはらむリアクションである

その意味で、明治時代に日本に文明が誕生したわけではなく、明治・大正、それぞれに日本独自の文化(リアクション)なのですが、おおむね明治期の、直接文明と格闘するようなテンションの高い文化と、そのほとぼりが冷める大正期にあらわれるテンションを落とした文化があり、後者のみに日本の独自性とか固有性とかが付与されることに疑問符をつけるわけです。
平安文化がそうであり、文学においては、私小説がそれにあたる(対比的にテンションの高いものとして、明治の漱石の仕事があげられよう。そもそも漱石は留学経験を持つ英文学者だった)。(ある意味で、明治期以降日本に新たな文化が発生したということは、触れうるような文明をが世界に存在させるということでもある。)文明=外部を強く意識するか、内向きに閉じるか、文化の動きにはゆれがあるが、それが可能なら、低テンションを志向するのが人間である。だって楽なんだもの。でもさそれだけどもさ……


それはそれ、
日本の市民図書館史に当てはめて考えればおおむね70年代からの市民の図書館運動は文化的なレベルの図書館を志向してきたといって良いように思う。丸山高弘さんのブログ(http://maru3.exblog.jp/9194718/)に≪やはり圧倒的に9類(文学)が多数を占め≫とあるが、それは、昭和的な公共図書館が文化的なレベル(芸術的なレベル)を志向し、それが今も続いていることを示している。
ある意味で市民の図書館運動は最初からローテンションだった。それは第3の文明接触といっていい戦後の動乱が収まったあたりで始められたところに示されている。むしろ戦後すぐの図書館法制定時に図書館関係者は高いテンションを要求され発揮したのではないか。


一方、平成という時代が20年というときを重ねて、ビジネス支援(政治経済的なレベル)が注目され、また、katz3さんが『公共学術図書館』(科学技術的なレベル)(http://d.hatena.ne.jp/katz3/20090929)というアイデアを提示し、丸山さんが6類(産業)の充実を提案している状況は、公共図書館に「文明」をとの接触を復活させハイテンションを取り戻そうとする動きとみなすことができる。なぜそのような動きが生まれたのかということに関して、ITの急速な発展があると思う。
ある意味で第4の文明との接触、グローバルで普遍的なコンピュータのプログラム言語=それは地域・国家を股にかけるものとして、帝国的な文明としての側面を持つから。
おおむね保守派と改革派の対立点のひとつに、IT対応の問題があげられるが、日本の公共図書館がIT技術の対応に遅れたことを単に無策とみるだけではなく、そこにあるしゅの抵抗(ナショナルな)をみることができるかもしれない。(文明の拡大を、パワー=暴力的なもの抜きに語りえないから)


文明か、文化か、という繊細にして大きな人類史的対立の現場に運良く!!!居合わせたと考えることは、予算があれば、図書館にまわすよりまず保育所へという、自治体のまっとうな判断が現実的な状況下で、その内部において、対話さえ困難なほどのすれ違いをみせる公共図書館の現状を憂い、いささか馬鹿馬鹿しくなっている人に、あるしゅの「はり」を与えないだろうか。
庄司薫の馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説のなかに誇大妄想の効用を説く一説があったと記憶している。ある意味それを実践したのがオウム真理教なのだから、その効果は実証済みである)
下記の本に詳しい。



注①うそ

文明と書いてフミアキ

hatekupoさんの記事『自分が小心者のクセに粘着質だったことを改めて知る。前回の続き』
http://d.hatena.ne.jp/hatekupo/20091108/1257682203

のなかで、私が自分勝手にぴぴっと来たのがこの部分。
≪仕様書の作成とは“見える化”のこと。委託反対を単純に反対するだけで、仕事の“見える化”、契約事務を勉強しようとしなかった図書館界のツケがこんなことにも現れる…≫


私が自分勝手に思い出したのが、めでたく図書館を離れた公務員図書館員がかつて私に言ったこと。
箇条書き風にすればこうなる
・図書館での委託・指定管理は今後とも継続拡大する。
・それは、委託・指定管理による運営がけっして失敗しないから。
・その理由は、担い手がだれであれ図書館運営を失敗と確定しうるような、明確な指針・基準が存在しないから。
・失敗しない以上、方針が変更されることはないから。


見える化≫してこなかったツケということで、私のなかでピピッとつながってきた。
見える化≫って「外在化」させることだと思う。当事者(自治体・業者・市民……)のそれぞれにに対して、メタレベルにたつ「仕様書」を作成すること。
それこそ、「文明」ということのはず。そもそも図書館って、基本としては、文で明かされたものを収集・保存・公開する場所ではなかったのか。

ということで、
ここまでで、思いついた記事のアウトラインはこんな感じ。


委託・指定管理への移行を本気でストップさせる気なら(失敗させようと思ったら)、明確な評価基準を作成することこそ有効な方法であるのに、それをしないで、なぜ不法・不当な労働問題を声高に叫ぶことでなそうとするのか?
それは、いったん評価基準を外在化させてしまえば、それによって、みずからも評価されることになるのを、直営系図書館員とその周辺が嫌ってということではないのか。

というようなものだった。



ところがその後、「図書館 評価」などで検索をかけたら、下記のようなことがわかった。

①そもそも図書館大会第8分科会は図書館評価について議論する場だったということ。
②行政評価による公共図書館評価におけるアウトカム指標. 桑原芳哉(慶應義塾大学大学院文学研究科図書館・情報学専攻
http://wwwsoc.nii.ac.jp/mslis/am2007yoko/20_kuwabara.pdf
③2009年 町田市立図書館「図書館評価」を実施します!
http://www.city.machida.tokyo.jp/shisetsu/cul/cul08library/announce/tosyokanhyouka/index.html
というわけで、すでに実際に取り組まれつつあること。


②と③にざっと目を通して、私の思い描いたものとは、相当ずれがあることを知った。まあ。思いつきだしな、私は。
それはそれ、基本的な考え方として②が参考になった。
気になったのが③である。もちろん積極的に取り組むことは良いことだと思うが。


気になった点は、
①おおむね図書館内部で、目標設定から評価まで行うこと。
②外部的な存在として図書館協議会がその役割を果たすことが期待されているが、図書館協議会委員の選出に透明性・公開性がないこと。(教育委員会が任命)

正直いささか落胆して、エネルギーレベルが6から2に下がる。せっかくWEBにアップされているのだし、細かくみていこうとかと思っていたのだが、挫折。(PDFみづらいし)

それにしてもこのやり方、気をつけないとわれわれはちゃんとやってますということで、外部の声をはねつける厚い膜として、機能しかねないと思う。市民・利用者に開かれた市民図書館を目指すなら、それを回避するための制度・システムの整備は必要だろう。。


PS
検索をかけたとき一緒に見つかったもの。

公共図書館の自己評価入門 (JLA図書館実践シリーズ 9)

公共図書館の自己評価入門 (JLA図書館実践シリーズ 9)

(JLA図書館実践シリーズ 9) 神奈川県図書館協会図書館評価特別委員会 編

あああ、自己評価。自己評価でいいんなら、私なんか……号泣。

有楽町駅は長い、おおむね人生も、夜も

近所の市民センター(注1)のひとり花壇ボランティアとして、サツキの植え替えを済ませてから、U40会場のある有楽町へ。
このところ夜になると急に冷え込んでくるような気がしていたので、Tシャツの上にセーター、その上にパーカーを着込んで出かけたのだが、電車の中は暑いのでパーカーを脱ぐ。
地下鉄に乗り換えたらもっと暑かったし、お店のなかはもっと暑いかもと考えて、セーターを脱いで、バッグにしまう。有楽町についてパーカーを着て地上に出たらちょうど良いころあいだったので、衣服選択の方向性は間違っていなかったのだが、出口を間違えていて、すぐに迷子になる。
10分ほど歩いて、あらぬ方向に進んでいると気づき、小走りに駅に戻る。キオスクのおばさんに、情報提供を求めると「有楽町駅は長いのよ」に始まる丁寧な回答を得る。時間に遅れるのは好まないので、走って、会場まで。もう汗まみれ、汗が引くまでパーカーも脱ぐ。とほほ。(小沢健二にそういうビデオクリップがあったな)

で、会場はもっと熱かった。あれが若さというものかしら。

それはそれ、Hさんという年配(Over60)のかたが、心細げな私を目ざとく見つけてくれて(長きにわたる図書館員生活で手に入れた「眼力」(注2)というものか)、相手をしてくれる。

Hさんに誘われて、本物?のU40のかたと、ガード下へ。
まさにひとりの図書館員の「生き様」というようなHさんの話を3人で聞かせてもらう。私はいわゆるコッテリした図書館員が好物なので、焼酎の水割りがすすむ。
一方若きKさんの、若い世代が直面している問題や、それに対するアプローチの話も熱があって聞き応えがあった。
西武池袋線、最終の準急にも間に合って、無事に帰れたし、実に良い1日でした。
サツキにも図書館にも美しい花が咲きますように。

ということで、事務局のみなさん、waterperiodさんに感謝。


注1
図書館を含む複合施設。一時期、ウツウツとその図書館に通いつめていた。そのうち花壇があまりにほったらかしなので、勝手に花なぞ植え始めた。そのうち非公式に公認?されるようになった。職員のかたと花の話をしたり、近所のおじいさんおばあさんが苗を分けてくれたりもするようになった。
注2
カウンターに立っているうちに、図書館に不慣れな人の発する気配のようなものが、じょじょに感じ取れるようになってきた。こちらから声をかけると、本を借りたいのだがとか本を探しているのだが、といった言葉が返ってくる。Hさんの眼力はそのように鍛えられたのではないかしら。

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

角のところで……

締め切り延長のどさくさにまぎれて、結局参加することにしたU40東京会場。
私はオーバー40(っていうか、U50、トホホ)なので、すみっこのほうで、(ー『角のところで会いましょう』ー)U40のみなさんの、希望に満ちたトークを聞かせてもらうことになる。
思えば図書館業界のすみっこにもぐりこんで2年半、そんな話を聞いたことがあまりなかった。その意味でとても楽しみにしている。


ー僕は、ひとが脱線するのを聞いてて、ちっともいやじゃないんですよ。そのほうがむしろおもしろいと思うんですー
  『ライ麦畑でつかまえて

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ある意味、線路をはずれることこそが、生きているという充実感につながるものなのだ。
それは狂気や死へともつながるものだが、人間はそういうふうにできているらしい。


PS
昨日テレビでやっていた腰痛予防の体操ー両手を腰に当てて上体を左右に倒すーを、そのまま、まねしたら、今日になって、背中の右側全体に強烈な痛みが発生。あろうことか、上体をひねることができない。
ということで、これが「老い」というものなのか。とほほ。
「脱線!」(ある意味筋肉が……)
BGMつけとこ。
オフコース『1億の夜を超えて』
http://www.youtube.com/watch?v=nIprt2L7OGg&feature=PlayList&p=AC06A6B2071AF95C&playnext=1&playnext_from=PL&index=45
世代って奴か。

PS2
U40のサイトを見ていたら、ライトニングトークの登壇者のひとりに、吉井潤(練馬区立南田中図書館)さんというかたを見つける。
練馬区南田中図書館って、ともんけんウィークリーの5月18日号?で、大澤さんというかたが話の枕に使ってもいたところですね。
http://tomonken-weekly.seesaa.net/article/119715188.html
それはそれ。
吉井さんの演題は『副館長の次は…』いうもの、どんな話が聞けるのかしら。
ローカルな話ですが、南田中図書館は、開館当初、その趣味のよいCDコレクションで、区内の音楽ファンに歓喜の渦を巻き起こした図書館だったりします。

『コロボックル物語』を読んで その2

第5巻『小さな国のつづきの話』は

ー名まえを杉岡正子といって、その年の春高校をでるとすぐ、町の図書館につとめはじめたおねえさんがいるー

というぐあいに始まる。
もちろんコロボックルの話がメインにはあるのだが、最初は事務員として図書館で働き始める正子が、じょじょに司書への道を進んでいくさまが、サイドストーリーになっている。

図書館がらみの興味深い描写などもいくつかあったのだけれど、わたしが関心を持ったのが次の部分。

ムックリくんは本ならなんでもバリバリ読みとばすような、読書力の高い子だが、しかし、前にもいったように、この子は『専門家』の一人で、女の子に多い『読書家』ではない。だから図書館にも、なにか目あてがなければでかけていかないー
            141ページ

理系の学校に学んだ、児童文学者である、佐藤さんには、専門家と読書家が同居していたのかなとも思った。
それにしても、「専門家」と「読書家」という2つで、市民図書館の利用者像を把握するのは、現実的に有効だと思う。


katz3さんという方の記事。
≪大学はある程度指向性がある人の集まりなので、多少御しやすく、気楽さはあります。大学図書館業界にある、一種の「腰の軽さ」は、そういう側面に支えられているのかもですね。≫
http://d.hatena.ne.jp/katz3/20090913
大学図書館というところは基本的に「専門家」とそれを目指す学生にターゲットを絞っていくことで、先鋭化できる。利用者の「目あて」がはっきりしている。katz3さんは、大学図書館の軽快さを腰の軽さと表現したんだと思った。

市民図書館がいささかかったるいのは(OSだけ入れ替えたパソコンみたいに)、専門家と読書家、両方の利用者にサービスを提供し続けていく必要があるからだと思う。だいたい読書家というのは「目あて」がはっきりしていない。目あてがはっきりしないまま、図書館を訪れることで、新しい作家・作品と出会うのだといってもいい。
あるいは、目あてが合って図書館に行くのではなく、図書館に行って目あてを見つけるのだ。


ウィトゲンシュタインは、哲学の問題が解決しても人生の問題はまるごと残る、みたいなことを考えていた時期があるようだが、市民図書館の読書家対応部分は、まるごと残る問題に直接かかわってくる。

ps
発表されてけっこう時間がたった本を読むと、どうしても全体がずっと昔の話という気がしてしまうものだが、この作品の時代設定から考えると、正子は、現役ばりばりで、今もどこかの図書館で働いていてもおかしくない。もうおねえさんではないだろうけれど。そう考えると不思議な感じがした。

『落ちる、落ちる、叫びながら・・・・』

sakuraya_tohruさんから頂いたブクマコメントを読んで、考えた。
≪場としての公共図書館は90年代から具現化したが華美なハコモノを整備したい政治家の手段でしかなかったので、お金が無くなった現在に至り失敗と判断される/今後は、住民の自主的なコミュニティ拠点となれるか、かな… ≫

失敗と判断されるか……とほほ。

そこで、
赤毛のアン』の話で、なんなんだけど。

赤毛のアン (集英社文庫)

赤毛のアン (集英社文庫)

赤毛のアンを読む限り、建物としての「教会」って、コミュニティ・住民のものとして、最初からあるようだ。
前任の牧師の退任を受けて、新しい牧師を選ぶ話が、ひとつのエピソードとしてある。


牧師志願者を、集めて、「説教」などをさせて、リンドおばさんをはじめとする、コミュニティのうるさ型が、あれこれ批評しあって、新任の牧師を選ぶ。
『教会の長老たちの審査に、及第する牧師もいれば、落第する牧師もいた。』(262ページ(ハードカバー版で)
辛口で現実的なリンドおばさんは
『あの牧師さんにしても完璧ではないけど、年棒750ドルじゃ、完璧な牧師さんは望めないと言っ』たりする。(しかしこういう経済感覚って大事かも)
そのように選ばれたアラン牧師と、特にその夫人は、『赤毛のアン』の重要な登場人物になる。


いっそ、館長志願者や館員志願者を集めて住民が、などと、夢みたいなことを考える。
夢みたいではあるが、指定管理者制度とからめても?、案外現実的でもある。

図書館員よりも通館歴の長い利用者というのは結構いるものだし、そのような人の中には市民図書館に対してイメージや理想を持ち、意見をする市民も結構いるものだ。
市民図書館側は、そのような市民をむしろ積極的!!に煙たがってきたのではないだろうか。
図書館の本質を理解しないといって冷笑したり、身内!の市民の声を、市民全体の声とすりかえたり。

現在の混乱のなか、正規の市民図書館員のなかには、そんな?図書館ならなくなってしまえばいいと、かわいさ余って憎さ1万倍式の呪詛を投げかける人もいるが、私はただの利用者としても、市民図書館依存度が高いので、なくなってもらったら困るのさ。
そもそも市民図書館が、学生でも、教師でも、研究者でもない私の、唯一の図書館なのさ。


図書館には会議室兼視聴覚室兼お楽しみ会室がつきものなんだし、そこで、地域の市民が集まって、その図書館の今後を、ひとつひとつ決めていったらどうかしら。
そもそも自治ってそういうものじゃないかしら。
まあ、市民図書館の担い手・運営者が公務員であっても別にかまわないけれど。
私はワーカーズコレクティブとか、そんなことも考えている。市民図書館って、あらかじめ市民が出資者なんだし。委託・指定管理の受け皿としても、筋は良いように思う。

ネットベーシックの情報機関なら、日本にひとつあれば済みそうだ。情報機関としてのコストパフォーマンスを考えたら、それが1番かもしれないし、それはそれで粛々と進めていけばいい。きっと便利は便利だ。
私にしたって、夏目漱石宮沢賢治の作品を腰をすえて読もうと思えば紙の本を手に取るけれど、あの場面のあの言い回しといった時には、青空文庫をはじめとしたネット・電子メディアを使うことが多い。
ただ図書館で書架をぼんやりとめぐって、目に付いた本を、図書館で読むことも、結構好きなのだ。
市民図書館フォーエバー。


『落ちる、落ちる、叫びながら・・・・』は、大江健三郎が書いた、三島由紀夫問題?を背景に、親子のプールでの日々が重ねあわされる短編。
それはこんなふうに終わる。
ー僕は沈みました。これからは泳ぐことにしよう。僕はもう泳ごうと思います!ー

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

「浅からぬ因縁」(フロム巨人の星) 市民図書館の生き残りと教会

公共図書館国会図書館に滅ぼされる日』というショッキングなタイトルの記事を読んだ。
http://sakuraya.or.tp/blog_t/index.cgi?no=559
国会図書館が蔵書すべてをデジタルアーカイブ化して……という、シュミレーションなのだけど、まあそうなると、市民図書館は素通りというか、存在価値は急速に下がるであろうことは、たしかなことと思われた。
市民図書館は、必要な経費と提供されるサービスの不釣合いが、問題になって、片方に、サービスに見合う経費削減(非常勤化、民間化)があり、もう一方に。コストに見合うサービスの提供を目指して、高機能化が模索されているといってよいと思うけれど、図書館界全体が高機能化を推し進めると、市民図書館があらためて存在価値を下げるということになると、つらい。
なんか高速道路ができて、経営不振に陥りそうな国道沿いの食堂みたいだ。

さて、
現状の市民図書館が、市民のための図書(資料・情報)の館(ヤカタ)だとすると、図書の部分がある程度、素通りされるわけで、さしあたりヤカタ的側面を重視するのも方法かなと思った。

唐突だけれど、欧米のコミュニティと日本のそれを比較したとき、「教会」の有無って案外大きいんじゃないかと思う。
教会って、もちろん信仰の場所であるけれど、それ以外にも社交の場、情報交換の場であり、教育的機能も持っている。
もともと、欧米の図書館と教会は「浅からぬ因縁」(フロム巨人の星)があるが、結果的にある程度の機能分担で、社会のニーズに応えているのではないかと思う。

欧米の小説には、歌の得意な子供が「聖歌隊」で歌うという場面が良くあるが(例サリンジャー『エズメのために……』)、図書館の会議室兼視聴覚室兼お楽しみ会室が、ママさんコーラスの練習場として使われるということは、ある。
図書館原理主義的には許しがたいことかもしれないが、欧米では教会と図書館で、分化される役割が、日本の市民図書館で、一体化しているとしても、不思議ではない。

さしあたり資料は腐るほどあるんだし、本について語り合う場所、CDについて語り合う場所、地域について語り合う場所などなど、地域のコミュケーションのひとつの核になる「館」として、価値を高めておくのも、アイデアかと思った。

自習者の話題が、少し前に微妙に盛り上がったが、原理原則から導いて、理論的に受け入れ拒否をするのではなくて、検討中の課題とかいって、様子見を決め込んで、全体として利用者が激減することがあったたなら、国民の学習権を保障するとか、都合の良い理論構築をして、むしろ積極的に、市民図書館の価値を高める一手として使わせていただくというのもありなんじゃないか。
実に卑怯だが。
『……愛と惨めさをこめて』

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

「堕ちて生きよ」
堕落論 (集英社文庫)

堕落論 (集英社文庫)

どうでも良いけど、すごい表紙になっていたのね。堕落を実践しているというか。