ふんわりやわらかな差別。正規はどこまでえらいのか

ともんけんウィークリー。3月1日の記事。
『いつか毛玉を吐く日』
http://tomonken-weekly.seesaa.net/article/142495271.html
ともんけん=図問研=図書館問題研究会(http://www.jca.apc.org/tomonken/


記事の前半は書き手のペットのフェレットの話です。
《若干体臭が臭くもありますが大変元気でかわいらしい生き物です。》
実に親しみやすい導入部分ですね。

さて、そのフェレットの体調が悪くなり、心配していたところ、「毛玉」を吐き出して、また元気になったと記事はつづきます。

フェレットは猫と違い、異物を吐きだすことはしません。生まれてこのかた毛づくろいで溜まった毛玉で胃袋がいっぱいになり、具合が悪くなっていたのでした。これが閉塞を起こし手術となると、体への負担はもちろんのこと、看病の面でも金銭面でも大事になるところでしたから、根性で吐きだしてくれた彼にただ感謝するばかりでした。》


記事は後半 突如として、仕事の話になります。
記事を読む限り書き手はかつて図書館で働いていて、異動で2年間別の部署にうつり、ふたたび図書館に戻り11ヶ月をむかえたところのようです。文章を読むかぎり書き手は正規の公務員だろうと思われます。

別の部署で働いたときの感想を書き手はこのように記します。

《もちろん初めての業務を覚えるのは大変でしたが、正規職員ばかりの職場は人間関係の煩わしさも少なく、なんといっても業務に対する思い入れがあまり強くない分、意見の対立があったり、事業を実施する上で判断の必要な時にあまり悩まずに結論を出すことができました。自分に与えられた事業目的を真剣に考え、作業の合理化をしたり、どうすればより良いものを提供できるかと悩みもしましたが、精神的な疲労感は全くと言っていいほど感じませんでした。》

書き手は図書館に戻ってからの11ヶ月を正直な気持ちとして「しんどい」と書いています。
そして
《この11か月間に私のおなかに溜まった毛玉は、イガイガと私の心を曇らせるのでした。》
とメタファーをつかって、前半のフェレットの話とつなげています。実に巧みな構成です。

さて
書き手の文章が別の部署と図書館を対比的に描いているところから察するに、図書館は《正規職員ばかりの職場》ではなかったのだと思われます。非正規の職員か委託のスタッフなどとともに働く、公共図書館だったのでしょう。
そこで非正規職員と一緒に働いて「毛玉」がわたしのおなかにたまったと書くことは、メタファーのひろがりとして、非正規職員=フェレット=毛玉というラインを浮かび上がらせてしまいます。
もちろんメタファーですから、読む人によって受け止め方は違うでしょうが。

メタファーについて参考になる村上春樹さんのエルサレム賞スピーチ。
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

なるほど。

村上さんがおしゃるとおり『私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なの』かもしれません。
もしそうだとすると、運良くがんじょうな硬い殻を持った卵が、もろくやわらかい殻を持った卵に体当たりをくりかえすことに対して、異議を申したてなければならないでしょう。
体当たりは、相撲の立ち合いを思い浮かべるかぎり、公平で平等な競い合いのように思われますが、頑丈な殻の持ち主が有利なようにあらかじめルールが設定されています。時として、そのルールが道徳と呼ばれたりもします。そこで、行われる力の行使こそ残酷な暴力と呼ばれるべきものではないでしょうか。

ところで、私はこの記事の書き手にたいして、いかにも幼いという印象を持つばかりで、悪い感情を持ちえません。硬い殻を持った弱い卵の一つではないかと思います。

そこで、
「私がブログを書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。ブログを書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。」(うそ。でも、この話を書くのは「しんどい」だけでした)

ということで、この一件を、『日野の悲劇』にならって、「図問研の悲劇」と呼んで、語り継いでいきたいと思います。


ps1
この文章はテンプレート・雛形としても優れています。
《正規職員》という言葉をほかの言葉に置きかえることで、別種の差別文書が簡単に作れるからです。ためしに「日本人」と置きかえてみてください。あとは細部を整えれば(フェレットを別の動物に書きかえたりして)完成です。


ps2
このような記事が書かれる一方、公共図書館界は「図書館海援隊」プロジェクトを立ち上げて、現在の混乱する社会に積極的に関わろうとしています。

「図書館海援隊」プロジェクトについて(図書館による貧困・困窮者支援)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/kaientai/1288360.htm


さて、『労働者の直面する問題と図書館のできること』
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/05/1288525_1.pdf
には『パワハラ』『パワハラに伴うメンタル被害』といった言葉が使われています。

おまえらといっしょに働くと毛玉がたまると、正規職員が書くのは、非正規職員に対するりっぱなパワハラではないでしょうか。
ということで、
「図書館海援隊」に参加している図書館の司書の方、図問研にひとこと言っていただけませんか。
北海道立図書館
秋田県立図書館
東京都立中央図書館
神奈川県立図書館
大阪市立中央図書館
鳥取県立図書館
福岡県小郡市立図書館
のみなさま、よろしくお願いします。

ネットで実名活動をするときの実にささやかなリスク

しばらく前のことだが、職場で、同僚に声をかけられた。
「○○さん、『水死』を一番に予約していたでしょう!」
ウキャー、ダダ漏れじゃん、私の秘密

水死 (100周年書き下ろし)

水死 (100周年書き下ろし)


さてさて、『水死』の予約情報からたどったのか、『私』の予約情報からたどったのかは不明だが、同僚(初老の女性)の行動は、やはり問題があるといわねばならないことだと思うのだが(利用者として図書館を利用する限り私もまたひとりの利用者なのだ)、そのあまりの屈託のなさに、私はこのことにかんして、いまのところ、何も言えずにいる。
『水死』などという陰気くさいタイトルの本を発売前に予約して(それも区内で一番!)まで読む人間として同僚の目に映る「私」に、ある恥じらいの気持ちさえ感じて、彼女になにごとか、はなしをする気になれない…


もちろん現在の図書館で働く限り、同僚のそして利用者の読書傾向に完璧に無知であることは難しい。本に予約レシートをはさんで、利用者の名前のアイウエオ順に棚に並べていくのだから。もちろん貸し出し手続きのとき、タイトルから完全に目をそらすことなどできない。


ふと思ったのだが、たとえばある組織が、長期的にある人物の行動を監視するとする。
特に読書傾向を監視するとする。ある人物が公共図書館愛好者で、ひんぱんに資料を借り出すタイプなら、スパイをひとり、パート・アルバイトとして、指定管理・委託業者に送り込めばよい。スパイは日々生真面目な図書館員として働きながら、予約した本、貸し出し中の本のタイトルなぞをせっせと組織に報告するだろう。
考えてみれば、これは別に委託・指定管理を導入した図書館のみの問題ではないし、委託・指定管理のスタッフのみの問題でもない。スパイなどというものは、おおむね一生をそのためにささげるものだから。


それにしても、私の予約情報や貸し出し情報を一瞬でチェックできるスタッフが区内で、ざっと計算して、300人!!!。
これが気持ち悪い。
(もちろん私はほんとに恥ずかしい本は別の自治体で借りるけど。)

恋愛心理学 (図解雑学)

恋愛心理学 (図解雑学)

もちろん私は徹底的に無名の人間なので、あまり気にすることはないのだが、たとえば、ネットで実名活動をする人が市民図書館利用者なら、その人の利用状況をフォロー?できる人間が300人(自治体の規模にもよるけど)いるということなのだ。
へたに?名前が売れている人だと「あっ、この記事のもとねたは、あの本」などと、にんまりされる可能性はじつに高い。
これって、結構いやじゃないですか?
(これは返却後の貸し出し履歴を完全消去するというやり方では解決する問題ではない)


市民図書館が本気で、個人情報の保護(利用者の秘密を守る)を考えるなら、利用者の氏名(実名)、住所、電話番号に一段高いセキュリティーをかけるべきだと思う。
現実的に個人の実名と住所と電話番号が必要になる場面は、登録時と延滞の督即時におおむね限られる。それ以外の貸し出し手続きなどに、実名が表示される必要はないはずだと思う。
なんと言うか私が新垣結衣だったら!!!。あまりにリスクが大きすぎる。住所と電話番号が、300人に知られてしまうとなると、事務所だってストップをかけるのではないかと思う。現状公共図書館が有名人お断りじゃないかといわれても、しかたがないところがある。

なんというか、私レベルの人間が、図書館のカウンター内のパソコンを使って、利用者の氏名を打ち込んで、住所から電話番号、予約状況、貸し出し状況までを、簡単に知ることができること自体、ゆるいといえば実にゆるい状況なのである。
(この場合スタッフのモラルにひたすら期待するなどというのは基本的に論外だと思う)

さて対策としては、ID番号で丸ごと処理するか、いっそ、ニックネーム!!(ピッピとかスノークとか)の使用を認めるか、あたりじゃないかと思う。新規登録時にニックネームも同時に登録するようにすればいい。
さしあたり、利用カードから、名前(実名!)を書くスペースを無くすところからはじめてもいいんじゃないか。


などと相変わらず思い付きを書き散らす今日この頃。実に水死寸前である。

追記
Guroさん。個人的な趣味でやってしまったら、実に職務規定違反だと思います。現実的にはカードを忘れた人が「仮利用カード」(氏名・住所・電話番号を紙に書いてもらう)を使って貸し出しをするときなど、氏名か電話番号から利用者の貸し出し画面にアクセスするためにあるんですけど。考えれば、仮カード自体も微妙ですけど。住所と電話番号を知っている友人に成りすますのは簡単でしょうし。そこでのチェックが緩い割には、仮カード自体は個人情報だからと書記面を下にして保管して、シュレッダーにかけることになっています。
ピリピリと緩い部分のバランスがちょっと軋んでいる気がします。
利用者の利便性を維持しながら、ガードも固い、現実的な方法があればと思います。
そういえば、むかし、とある区役所に勤めていた人から、仕事が暇なとき、転入転出簿?がしまってある部屋にいって、小中高校の同級生のその後をたどるのを楽しみの一つにしていると、きいたことがあります。今がどうかはわかりませんが。

仕事を始めてしばらくしてから、新規登録のときの館内呼び出しが名前から数字(カードを手渡しておく)に変わったんですよ(銀行や病院みたいに)。利用者からの個人情報を守るべきという指摘を受ける形で。たぶんその利用者ならやっぱりいやだと思うのですね。現行のシステム。さしあたり名前が表に出ないだけでも結構違うと思ったのですが。

公共図書館の新しい夜明け。

《小学校の学区単位毎に何人かの地域委員を選び、選ばれた委員が自分たちの町づくりに当たる。委員を選び出すのは、自ら手を挙げて登録した選挙人。当選した委員は福祉、洪水対策、公園の管理などのテーマを決め、それに市が予算をつけて、委員会が執行することになる。》http://www.j-cast.com/tv/2010/02/12059973.html

名古屋市での河村市長を中心とした取り組みなのだけど。
選挙人システムにいささか癖があるが、市民参加型の新しい行政の形として可能性を感じている。

なんていうか「図書館の管理」にテーマを決めれば、これは『「図書館委員会(ライブラリー・ボード)」』に近いものになりそうではないですか?


「図書館委員会(ライブラリー・ボード)」というアイデアについて、もそもそと考え続けてきた。

図書館委員会という考え方自体に不満はないし可能性も感じているけれど、図書館と利用者・市民間の関係を変えていく力はおおいにあるとして、公共図書館が地域のなかで果たす役割や、立ち位置にドラマティックな変化をもたらしうるかというと、いくらか弱い感じがする。

そこで、図書館委員会ばかりでなく、教育や介護や雇用などなどの町づくりにかんする市民による委員会を、図書館館区?単位で作っていけばどうだろう。

それらの委員会の議場として、図書館の視聴覚室兼会議室兼コーラス練習室を提供するのみならず、多くの委員会からの資料要請や調査要請に図書館員が応える形になれば。(国会図書館の地域版のように)、そして、地域に関心を持たざるを得なくなった市民に(なんといっても自分たちで決めていかなくてはならないのだから)基本的な地域情報を提供する役割を公共図書館が担うようになれば。
公共図書館は、かつて夢見られた民主主義の基礎的な機関として、機能し始めるのではないだろうか。
『社会と個人の自由、繁栄および発展は人間にとっての基本的価値である。このことは、十分に情報を得ている市民が、その民主的権利を行使し、社会において積極的な役割を果たす能力によって、はじめて達成される。建設的に参加して民主主義を発展させることは、十分な教育が受けられ、知識、思想、文化および情報に自由かつ無制限に接し得ることにかかっている。
地域において知識を得る窓口である公共図書館は、個人および社会集団の生涯学習、独自の意思決定および文化的発展のための基本的条件を提供する。』
    ユネスコ公共図書館宣言 1994年

なんてことを考えていたのだが、現実化する可能性については、疑問符が23個ぐらい続きそうな感じだった。
そこに飛び込んできたのが、名古屋市の取組みだった。
うまくいけば可能性はある。

限定的な民主主義社会の公共図書館が限定された役割のみを果たすことになったのはある意味で当然のことである。貸し本屋に甘んじていたのは、まあ致し方ない。
しかし、橋本真也の名台詞を借りれば、そろそろ「時は来た!」んじゃないかしら。
公共図書館黄金時代の。

PS
目に触れる情報のいくつかが実に気の滅入るものだったので能天気な話を書いてみました。

WEBOPACの使い勝手

ネット技術としての「PHP」について知りたくなって、本を借りるべく近所の市民図書館のWEBOPACで検索する。

[書名(タイトル)]と表示された欄に[PHP]と入力して、検索をクリックすると、いわゆる?「PHP研究所」系の本が大量にヒットしてしまう。

そのうちのひとつがこれ。

書誌番号  1006010061258
資料区分  図書
書名    愛をつたえた青い目の医者
副書名   ヘボン博士と日本の夜あけ
著者名   神戸 淳吉 著
叢書名   PHPこころのノンフィクション 5
出版社  PHP研究所
出版年月  198101
ページ   168P
大きさ   22cm

なるほどと思って、「help」で仕様を確認する。

関連する部分を取り出すと。

1-1.検索条件入力画面
書名   書名、副書名による検索ができます。

2-1.対象データの範囲
書名   書名、副書名、シリーズ名など

ピンポイントで検索したいと思っている人間に対して、あるしゅ、三段逆スライド方式になっている。
(いちおう「など」ってなんだよと、ツッコミはいれておく)

たぶんシステム開発当初、使い勝手のよさをめぐって、検討が繰り返されたあとで、この仕様に決まったのだろう、いろいろ大変だったんだなと思う。


それはそれ。
そもそも、データベースの検索自体に難しい要素はほとんどない。スポーツ新聞に欠かせないセリーグの打撃成績一覧の表を読み取ることができる人なら、誰でも簡単に理解できるものだ。

選手ごとに打率 得点圏 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 とならんでいるだけ
 
1 ラミレス(巨) .3223  .315  144  577  66  186  35  0  31
2 内川(横)   .3180  .313  132  503  65  160  32  2  17
3 小笠原(巨)  .3093  .348  139  514  78  159  25  1  31


「打数」の欄に「577」と入れればラミレスが、「得点」の欄に「65」と入れれば内川が、「安打」欄に「159」と入れれば、小笠原がヒットする。
本塁打」の欄に「30本以上」と入力すると、ラミレスと小笠原がヒットする。さしあたりそれで十分のはずなのだ。

ああ、それなのに、近所の図書館の場合、「本塁打」の欄に「30本以上」と入力すると、勝手に「強打者」を探していると判断して、打率3割以上の選手もヒットさせてしまうのだ。
ああ、内川!なぜおまえの名前が!!!おまえは17本しか本塁打を打っていないだろ…。

さて。
とうめん図書館は、あまり気をまわさずに、1対1対応の検索システムをメインに用意したほうがよいのではと思う。
変化球よりも直球勝負。利用者を限定しない公共図書館こそ特にそうだと思う。そうして図書館も利用者も成長していくのだ。
まずは地固めから。


ps
ニューヨークの図書館は「夏目」で検索ができた。近所の図書館サイトを拡大調査したら「PHP」がきっとりと反応しないWEBOPACの図書館も結構あった。
おお、日本の夜あけよ。

「さし絵がついていますか?」  「怖い本ですか?」

ブックマークコメントを読んで、少し考えた。
特に《suzuchさんの《 おとなが道筋をつけてあげるべきこととそうでないことがあって、これが一体どちらに該当するのか少し考えてみたいと思う。》が、気になっている。いつかじっくり考えたい。

それはそれ、先日読んだ『砂のゲーム ぼくと弟のホロコースト』著ウーリー・オルレフ(注①)にこんなシーンがある。

   −ーー
図書館で、わたしはかならず、
「さし絵がついていますか?」と聞き、ついていたら、
「怖い本ですか?」と聞くことにしていた。この二つの条件が満たされると、わたしは本を借りた。

ハッピーエンドでない物語を読むと、読んだ後あとしばらく悲しい気分をひきずってしまう。だからといって、読む楽しみと緊張をなくしたくなかったので、物語の結末を図書館司書の人に聞いたりはしなかった
   −ーー        (30ページ)

少年時代のオルレフ氏は、試行錯誤をくりかえしたのち、自分が読みたい本を手にするための、完璧な呪文を見つけだしたのだろう。
「さし絵がついていますか?」
「怖い本ですか?」

「さし絵がついているか」という質問は自分がもとめる本の難易度をめぐる質問といえる。絵本から一般書までの難易度の変化の過程の一段階にさし絵がついている本が占める領域があるから。注②
そして「怖い本ですか」は、どんな本を読みたいかという少年にとって一番大切なことを司書に伝える言葉である。


舞台となった図書館について詳しいことは書いてないから、どんな感じの図書館だったのかははっきりしないけれど、(閉架式の図書館だったのだろうか)しかし、まあ、ここで登場する司書って優秀だよね。たぶん個人的に猛烈な読書家で、図書館の本をあらかた読みつくしていたりしたのだろう。
そうでないと、少年オルレフの怖い本というリクエスト?に対応しようがない。それともその図書館の蔵書にはそれがどんな本であるかについて(怖いとか楽しいとか)の付加情報が添えられていたのだろうか。

とにかく半世紀以上過ぎた現在でも、子供にとって最も重要な点である、その本がどんな本なのか(怖いのか、せつないのか、わくわくさせるのか…)について、たとえばOPACを利用して、図書館司書が判断するのは困難なままなのだ。(というか、できないよね、それともできるのかな?)抄録って、あらすじベースだし。
これはもう何とかできるなら何とかしたいと思うのが人情ってものでしょう。
Every reader, his book.


それはそれ、子供時代を振り返って、私が「無人島もの」を好んでいたことを唐突に思い出した。ある意味、「舞台」っていうのも重要かも。カッレくんシリーズを好んだのも、時間的な舞台が夏休みだったこともあるように思う。宮崎アニメの中には「空もの」とくくりたくなる作品がある。
うーん、舞台か…

それはそれ、無人島ものは、より大きな枠組みとして、「子供だけの世界」と呼べそうなグループ?のバリエーションをなしていると思う。邪魔くさい!!!大人のいない世界で、というのは子供の基本的な夢のひとつなのだろう。
『芽むしり仔撃ち』『漂流教室』(漫画だけど)『子どもだけの町 』。
それぞれ島ではないが、同じグループに属している。


無人島もの。
かいじゅうたちのいるところ    [1・愉快+不思議+ワクワク・無人島]

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

十五少年漂流記    [4・ドキドキ+友情・無人島]
十五少年漂流記 (新潮文庫)

十五少年漂流記 (新潮文庫)

ロビンソン・クルーソー   [7・ハラハラ+元気・無人島]
ロビンソン・クルーソー (岩波少年文庫)

ロビンソン・クルーソー (岩波少年文庫)

『むだに過ごしたときの島』    [8・不思議+Y(友情)+K(恋)・無人島]
むだに過ごしたときの島

むだに過ごしたときの島

蝿の王    [9・怖い+悲しい・無人島]
蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)

ああ、いっそ、ソワソワ、ワクワク、ウルウル、ドキドキ、ハラハラ、ホロホロ、ブルブル、ウキウキ…だけで本が探せるようにすると、子供にはわかりやすいかも。

注①作品自体はずば抜けて面白いというわけでもない。あるしゅの図書館員が購入したくなるタイプの本。
注②そういえば昔図書館に本を探しに来た子供が、活字の大きさをポイントにしていたことがあった。自分が読める本をみつけるための、その子供が見つけだして方法のひとつなのだろう。



付録
いまこそ、書店で本を買った人が、途中で図書館によって、100円くらい払って!!!!(原材料費込み)ブッカーをかけてもらうのが常識となった世界を確立しませう。

今後求められること
①医師や弁護士同様の事業の独占化に向けた法整備。
②味のあるブッカーの開発。
③餅はやっぱり餅屋ね、といわれるくらいの腕の獲得。

参考図書

さおだけ屋はなぜ潰れたのか?

さおだけ屋はなぜ潰れたのか?

児童文学を分類せよ

ドイツの児童文学作家アンドレアス・シュタインヘーフェルの『ヘラジカがふってきた!』 を読んだ。

ヘラジカがふってきた! (ハリネズミの本箱)

ヘラジカがふってきた! (ハリネズミの本箱)

同じ作家の『リーコとオスカーともっと深い影』が、なかなかよかったので、ほかの作品も読んでみたくなったから。(イ○ナミ書店もようやくケストナーばかりじゃだめだってことに気づいたか)
リーコとオスカーともっと深い影

リーコとオスカーともっと深い影

『ヘラジカがふってきた!』はクリスマスがらみ?の100ページほどの短編。ファンタジー仕立てで(といっても異世界系ではない!!)、ところどころ、深みや、皮肉も含まれる。まずはこの時期にぴったりの本だと思う。本文中の挿絵もカラーで、表紙の絵も含め感じのよいできに仕上がっている。

それでまあ、さしあたりその読みやすさを示そうとすると、『ヘラジカがふってきた!』は小学校3年生くらいから、『リーコとオスカーともっと深い影』が5年生くらいからかな、などと考えるのだが、この学年別という発想には、基本的に正しい!と思われる批判がある。

同じ学年の子供といってもその読書スキルには大きな隔たりがある、というのがその批判の前提・根拠であり、それは確かに正しいように思われる。
たとえば小学校1年からサッカークラブに通い始めた現在4年生と、5年生からクラブに通い始めた6年生とでは、当然足元のテクニックにおいては4年生が優っているのは当然といえば当然のことなのだ。ちなみに私はリフティングが5回くらいしかできない。

そこでまあ必要と思えるのが、学年にとらわれず、その子供固有の読書歴を知ることだろう。そのための方法として、それまでに読んだお気に入りの本を何冊かあげてもらうというのが、まずはよい方法だと思う。
しかしまあ、その何冊かから、その子供にあった、次の本、ネクストブックを紹介しようとすると、いくらか(相当!)時間と根気のいる下準備が必要になってくる。

①すべての児童文学を難易度によって、10段階ぐらいに分類すること。
②すべての児童文学を内容によって、分類すること。面白いとか楽しいとか怖いとか不思議とか…。ひとつの作品は複数の魅力を持っている場合が多いから、内容は並列的に表記することが望ましいように思う。

たとえば
    『長くつ下のピッピ』は      [2・U(愉快)+F(不思議)+G(元気)]
    『名探偵カッレくん』は       [4・T(楽しい)+S(推理)+N(夏休み) ]
    『ぼくがぼくであること 』      [6・K(家族)+B+M(謎)]
    『ツバメ号とアマゾン号』は    [7・A(アクション)+B(冒険)+W(水?)]
    『穴』は                [7・O+Y(勇気)+F]
    『むだに過ごしたときの島』    [8・F+Y(友情)+K(恋)]
まあ、今ちょっと思いついたのを並べたので、あくまで参考までにってやつだけど。 
この作業が、すべての児童文学に対して行われれば、ある子供の「お気に入りの本」にも、分類記号がついているはずなので、そこからその子が次に読む本としてふさわしいリストを作成するプログラム自体は簡単なものであるはずだ……

『ヘラジカがふってきた!』が短いものなので30分ちょっとで読むことができた、その後30分くらいで、思いついたのが、このアイデアです。
すでにこのプロジェクト?は誰かが思いついて、完成しているかもしれないし、進行中かもしれない。
ネットで調べてもよいのだが、たかが思いつきというか、クリスマス前の夢ということで、そのままアップすることにする。

PS
二十歳かそこらで効果の現れるような読解力の向上指導なら、学校でやればよいのではという気が私はしています。市民図書館で行う読書指導はもう少し長いスパンを見据えたものであることが望ましいのではないでしょうか。このあたりはある程度、分担を決めて(学校と図書館の事業仕分け?)やったほうがよいように思います。

名探偵カッレくん (岩波少年文庫)

名探偵カッレくん (岩波少年文庫)

ぼくがぼくであること (角川文庫 緑 417-1)

ぼくがぼくであること (角川文庫 緑 417-1)

ツバメ号とアマゾン号 (アーサー・ランサム全集 (1))

ツバメ号とアマゾン号 (アーサー・ランサム全集 (1))

穴  HOLES (講談社文庫)

穴 HOLES (講談社文庫)

むだに過ごしたときの島

むだに過ごしたときの島

子供の読書指導を思う

『ためしに、私たちが力を引き出そうとしている子どもについて、その本の読み方を分類して、表にするとしたらどのようになるでしょうか。文字をたどりたどりする読み方、不得手な読み方、並みの読み方、表現力の豊かな読み方(表情をつけて音読する)、楽しみながらの読み方、思考を働かせた読み方、批判(クリティック)する読み方、解釈(インタープリーティング)する読み方…………』
       『読書へのアニマシオン 75の作戦』P30
この分類は子どもにのみあてはまるものではなく、本の読みかたの、一般的な分類、あるいは発展段階でもあるように思います。読書へのアニマシオンは、子供を対象にした方法であるのみならず、大人も含めたより広く確かな可能性を秘めていると思われます。

ところが実際には、読書へのアニマシオンは、日本に紹介される過程で、いささか迷走してしまったことも否めません。
読書へのアニマシオンの日本における先駆的紹介者のひとり有元秀文氏はいつのまにか、悪名高き?「言語力検定」にかかわって、その「公式ガイド」を出版するにいたりました。 どうやら有元氏にも読書へのアニマシオンが当初の方向性からずれってしまったという思いもあるようです。

もともと『読書へのアニマシオン 75の作戦』には、それが行われる場所として、学校の教室よりは、公民館や図書館など、子供が主体的に参加できる場所(逆に言えば参加したくなければ参加しなくても場所)が望ましいとされていましたが、日本において、その多くが学校の教室で、授業時間に行われること多いわけです。もちろん実際的に子供たちをアニマシオンに参加させようと思えば、強制力のある学校で行うことが実際的であったということは無理からぬことではあるのですが。

現在の子供の読書指導が、ほぼ『文字をたどりたどりする読み方、不得手な読み方、並みの読み方、表現力の豊かな読み方(表情をつけて音読する)、楽しみながらの読み方』まででストップし、そこからの『思考を働かせた読み方、批判(クリティック)する読み方、解釈(インタープリーティング)する読み方』がほとんどおざなりにされている印象を与えるものである以上、『読書へのアニマシオン』の可能性を改めて、問い直すことは、有効なひとつの方法であるように思います。そしてそれは学校よりも市民図書館において、より効果を発揮しうるものだと考えられます。
市民図書館がその存在価値をアップさせる手段として、積極的に取り組んでもよいのではないでしょうか。

PS
こういう言い方もあれですが、『表現力の豊かな読み方(表情をつけて音読する)』を大人が読み聞かせと称して実践するのは、大人の読書教育には有効でしょうが、子供に対して、どうなのか。子供の読書力の向上を目指すなら、あくまで主役は子供であるべきではと思うのですが。


読書へのアニマシオン―75の作戦

読書へのアニマシオン―75の作戦